沙織が聖域から日本に戻ってきたのは、一足先に帰国した星矢たちに遅れること半月の後。 黄金聖闘士たちはアテナの理想を正しく理解し、そのための努力を始めたはずだというのに、星矢たちの前に現われた女神アテナの顔色は冴えなかった。 「どうしたんです」 紫龍が尋ねると、沙織は彼女の聖闘士に短い溜め息を一つ、まず返してよこした。 「すべての人々の相互理解が平和実現のための第一歩とか何とか言って、黄金聖闘士たちが聖域の外で人々の自覚喚起のための活動を始めたのよ。正義と平和の価値を人々に知らしめ、その実現のために努力する同志を増やす――という名目で」 「へえ」 あの孤高の男たちが人々の中に降りていって語り合うことを始めたというのなら、それは大した進歩であり、大した変化である。 アテナの浮かぬ顔の訳が、星矢たちには今ひとつ理解できなかった。 「『悔い改めよ、裁きの日は近い』とでも 街中で叫び始めたんですか? ギリシャではそういう宗教活動のようなものは危険視されるとか?」 紫龍の懸念に、沙織が力なく首を横に振る。 「通りで誰が誰に何を話しかけても、ナンパの類と思われるお国柄だから、そうすること自体には何の問題もないのだけど……」 彼女の浮かぬ顔の理由は、そんなところにはなかった。 彼女は、黄金聖闘士たちの奇天烈な行動の一つや二つに驚き呆れる小心な女神ではなく、また、黄金聖闘士たちの行動が社会的な問題になったとしても、舌先三寸で政府高官を丸め込むことのできるグラード財団総帥なのだ。 彼女が浮かぬ顔をしている訳。 それは、 「面白いくらい女の子たちが引っかかってくるというので、黄金聖闘士たちはすっかり同志募集活動に夢中になってしまったのよ。朝早くに聖域を出て町に行って、帰ってくるのは連日深夜。朝帰りをする者もいて、聖域の守護なんてそっちのけよ」 ――というものだったのである。 「そりゃまた……」 沙織から知らされた思いがけない事実に、星矢がその先の言葉を失う。 「黄金聖闘士たちは、押し出しだけはいい男揃いだからな」 紫龍は苦い顔になって、不本意そうに頷いた。 そういう事態は考えられないことではなかった。 彼等はおしなべて顔の造作がよく、体格に優れ、その態度は自信に満ちている。 言動は多少 常軌を逸しているにしても――彼等は人心を惹きつける魅力を備えた男たちではあるのだ。 「それで、潔癖な処女神アテナはご機嫌斜めというわけですか」 沙織の不機嫌の理由は理解できたが、同時に星矢と紫龍の中には、新たな疑念が生じることになったのである。 その潔癖な処女神アテナが、氷河と瞬の仲を認め許しているのは奇妙なことだ――と。 ナンパどころの話ではない。 あの二人は ほもなのだ。 「まあ……沙織さんは、氷河に職場恋愛禁止令を出しても無駄だということがわかっているんだろう。伊達に俺たちとの付き合いが長いわけじゃない」 紫龍が言葉にしたのは、自らの中に生まれた疑念への答えだけだった。 星矢との付き合いの長い彼は、自分と同じ疑念が天馬座の聖闘士の胸中にも生じていることが、言葉にされなくてもわかっていたのだ。 「今度はいっそ、黄金聖闘士たちを全員不能にしてやろうかしら」 「それはムゴい」 潔癖な処女神アテナを不機嫌にしている本当の理由は、黄金聖闘士たちの朝帰りでも職務怠慢でもなく、彼等が本気で 彼等に引っかかってくる女の子たちに うつつを抜かしているのではないこと、彼等はただ思いがけずに釣れてくる獲物に浮かれているだけであること――だったのかもしれない。 でなければ、氷河と瞬はよくて黄金聖闘士たちは駄目などという不公平な考えを、彼女が抱くわけがないのだ。 それにしても、彼女の思いついた黄金聖闘士たちへの罰は 過酷極まりないものだった。 その考えに即座に賛意を示すことは、同じ男として、星矢たちにもためらわれたのである。 が、幸か不幸かアテナは女性だった。 それが男にとってどれほど衝撃的で屈辱的な事態であるのかを、彼女は実感として理解できていないらしい。 ――もしかすると、理解できているからこその、その罰なのかもしれなかったが。 「いいえ、いい考えよ。私は、黄金聖闘士たちに、確たる理想と その理想を実現する力があっても、コミュニケーション能力がなければ何もできないとは言ったけど、目的を忘れろなんて言った覚えはないわ」 いずれにしても、アテナはやるつもりのようだった。 聖域は、黄金聖闘士たちの言葉が通じなくなった時以上の大混乱に見舞われることになるのではないかと、星矢たちは大いに懸念することになったのである。 あのプライドの高い男たちが、我が身に起こった不幸を知った時の反応はいかなるものなのか。 その時、聖域を覆いつくすものは、炎のような沈黙か、氷のような騒乱か。 それは、星矢たちの想像を絶するものだった。 星矢たちは、なにしろ、そういう非常時の黄金聖闘士たちの反応を容易に想像できるほど、あの超人たちの 人となりを理解できていなかったのである。 青銅聖闘士たちに確信できることは ただ一つ。 すなわち、どう考えても『聖闘士星矢』のラスボスは女神アテナだということだけだった。 地上に真の平和が実現するのは、まだまだ先のことのようである。 Fin.
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