瞬が氷河と“お付き合い”を始めて半月ほどが経ったある日。
少しでも長い間、瞬(の手)と一緒にいたいらしい氷河は、その日も、城戸邸の庭に出た瞬(の手)を追いかけて、瞬(の手)と共に晩秋の空の下にやってきていた。
もちろん彼の手は、しっかりと瞬の手を握りしめている。
たかが庭の散策にまで――と、瞬は、氷河の執心を内心くすぐったく思いつつ、その手を白鳥座の聖闘士の手に預けていたのである。

その氷河が突然、
「瞬、キスしてもいいか」
と言い出した時、だから、瞬はひどく驚いた。
瞬の手と“お付き合い”をしている氷河が、そんなことを言い出すことがあるなどと、瞬はそれまで一度も考えたことがなかったのだ。
「えっ」
瞬は、驚きだけのせいでなく高鳴る自分の胸と心とに気付き、そんな自分自身に驚くことになったのである。

氷河がそんなことを言い出すとは思ってもいなかった。
しかし、それは、氷河とそういう行為に及ぶことを厭うていたからではなかったらしい。
少なくとも瞬の心は、氷河の求めることに不快の念を抱くことはなかった。
そうすることを嫌だとは、瞬の感情はかけらほどにも思わなかったのである。
だが――。

「氷河、あ……あの……」
瞬の胸は、心臓の音が氷河にも聞こえてしまうのではないかと思うほどに高鳴っていた。
そんな瞬の手を、世に二つとない宝に触れるように、氷河の手が捧げ持つ。
そうされて初めて瞬は、氷河がキスをしたいのは、彼が付き合っている人間の唇ではなく、その手なのだということに気付いたのだった。

落胆しなかったと言えば、嘘になる。
否、瞬はむしろ、落胆している自分自身をはっきりと自覚し、そんな自分に戸惑いもしたのである。
それでも瞬が氷河に、
「いいよ」
と答えることができたのは、氷河は“瞬”という人間の手を好きなだけであって、“瞬”を嫌っているわけではないと思うことが、(かろうじて)瞬にできたせいだった。
そして、『手へのキス』は、取り立てて騒ぐほどの大事件ではないのだから、害もなければ緊張する必要もないのだと思うことができたから、だった。

瞬の許可を得た氷河が、瞬の右手をその両手で包み、彼の頬に運ぶ。
そうしてから、瞬の指先に、手の平に、氷河は彼の唇を押し当てた。
緊張する必要もない――という自分の考えが誤りだったことに、その段になって、瞬は初めて気付いたのである。

氷河の唇は熱かった。
さすがに舌を使ってねぶるようなことはしなかったが、逆に、だからこそ そこには抑制された性的な何かが込められているような気がして、瞬の背筋をぞくりとさせた。
このまま氷河に手を犯され続けていたら、自分の手は氷河なしでは生きていられなくなる。
そんな恐怖めいた感情さえ抱きながら、瞬は、それでも、氷河の唇に愛撫されている自分の手を、氷河から奪い返すことができなかった。

どれほどの時間、氷河の口付けに酔っていたのか――。
その手が氷河の唇と指から解放された時、瞬は軽い目眩いに襲われ、危うくその場に崩れ落ちそうになった。
自分がそんな ありさまでいることを気付かれぬよう、慌てて膝に力を入れる。
そして、瞬は、自身の混乱をごまかすために、無理に氷河に軽口を叩いた。

「手だけでいいの」
「なに?」
氷河は、その時 やっと、瞬が手以外にもキスのできる部位を持っていることに思い至ったらしい。
そして、おそらく氷河は、付き合っている相手のジョークに巧みに応えることは男の仕事の一つと考えているから、それをした。――と、瞬は思った。
つまり、氷河は、瞬のジョークに応えて、
「じゃあ、ついでに・・・・
と告げ、先程まで瞬の手に口付けていた唇を、瞬の唇に重ねてきたのだ。

彼の宝である瞬の手への恭しさは消え、傍若無人に、その舌までが瞬の口中に忍び入ってくる。
手に唇を這わせられるより はるかに性の色の濃い行為だと思うのに、瞬は、そのキスに少しも酔うことができなかった。
瞬の唇と口中を蹂躙している間にも、氷河の手は瞬の手を握りしめていて、彼は瞬自身を抱きしめようともしない。
氷河は、瞬の手を愛撫するついでに、瞬の唇を味わっているにすぎないのだ。

こんなに苦しい初めてのキスを経験した人間が自分の他にいるだろうかと考える余裕を持てるほど、氷河の“ついで”のキスは長かった。






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