星矢が瞬を連れていったのは、村にただ一つだけある小さな神殿――の成れの果て――だった。
人と人、国と国が起こした戦が 神々を祭る神殿をも打ち崩し、再建のめどがないために放置されている廃墟である。
それでも そこは村の聖域とされていた。
途中まで未練がましく瞬のあとをついてきていた者たちも、さすがに神に関わる場所で自身の欲を露わにすることは はばかられたらしく、ここまでは追いかけてこなかった。

聖地の崩れ落ちた石柱の一つに、瞬が脱力したように座り込む。
「星矢、いったい何があったの」
殺気だった村人たちに取り囲まれている緊張感から やっと解放された瞬の声は、疲れ切っていた。
「こっちが聞きたいぜ」
星矢たちは、村人たちの態度にひどく腹を立てているようだった。
瞬と同じ膝上丈の麻の上着から伸びる脚で、星矢は忌々しげに地面を蹴飛ばした。

「昼頃に、村の広場の上に、突然、冥界の王ハーデスだって名乗る黒い服を着た男が現われてさ、そいつが、おまえに大いなる祝福を与えたとか何とか馬鹿なこと言ってのけたんだよ。偉そうに空中から俺たちを見下ろして、『人の世の王となりたい者はあの者を手に入れよ』ってさ」
星矢の言葉に、瞬は絶句することになったのである。
あの黒衣の神は、本気で、神の力を分け与えられた子供を巡って 人の世に争いを起こそうと考えているのか――と。
そして、あれはやはり自分一人だけが見た白昼夢ではなかったのだと。

空に浮かぶ人の姿をしたもの――。
神と名乗られれば、村人たちはその言葉を疑うこともできなかったのだろう。

「この世界を支配したいなんて大それたことを望む奴はこの村にはいないだろうけどさ、村の外にまで噂が広がってったら、んな馬鹿なことを望む奴が現れないとも限らないだろ。おまえは、しばらく人前に出ない方がいい」
「ん……」
星矢の忠告は、瞬にも適切なものに思われた。

神の力に頼らずとも叶えられそうな ささやかな願い。
身の丈に合っていない大それた願い。
村人たちの願いの内容はそれぞれだったが、彼等のいずれもが平素の彼等ではなかった。
彼等の血走った目を思い出すと、再度彼等の前に行くには相当の覚悟と――その覚悟を培うための時間が自分には必要だと、瞬は思った。
その時間は、彼等が平生の冷静さを取り戻すために流れるものにもなるだろう。

「ったく、あのハーデスって野郎が煽るようなこと言ったにしても、みんな乗せられすぎなんだよ」
星矢の口調はひどく忌々しげである。
ハーデスなどという神が現れさえしなければ、村人たちは戦災孤児たちに対して同情心の篤い優しい人々だったのだ。
彼等を変えてしまった神に、星矢は反感を抱いているらしい。
そんな星矢に、瞬が小さな声で尋ねる。

「星矢には……僕に叶えてほしい望みはないの」
「ないこともないけど、そういうのは自分で手に入れなきゃ嬉しくないだろ」
「……うん」
星矢が、実に星矢らしく あっさりと言い切る。
瞬は、友の変わらなさに ほっと安堵の息を洩らした。
自分が変わってしまっても――正しくは、変えられてしまっても――態度を変えることのない友人がいる。
それだけでも、千々に乱れていた瞬の心は幾分 落ち着いた。

「家に帰るのも危険かもしれない。しばらくどっかに隠れてた方がいい。それこそ、ああいう奴等を追っ払える力を持つ人のところに保護を求めるとかさ」
家といっても、瞬が現在暮らしているのは瞬自身の家ではない。
瞬は――星矢も――、10年ほど前の戦で住む者のなくなった村の家屋を勝手に利用させてもらっていた。
当然そこには自分のものと言えるものはなく、せいぜい数着の着替えと寝る場所があるばかりである。

「でも、そういう力を持っている人たちこそが、世界の支配を望むんじゃない? より多くを望むのは、既にある程度自分のものを持ってしまってる人たちのような気がする……」
星矢のような人間がいるから、ハーデスが言うように人が皆腐敗しているとは思わない。
だが、この地上に住む人々のすべてが行ない清らかで欲がないとも、瞬は思っていなかった。
もしそうであるならば、戦など起こるはずがないのだ。

この世界には大国と言える国が5つほどあった。
それらの国々はいつも、この世界の支配権を我が物にしたいと願い、互いに争っている。
大陸の端に突き出た半島と その周辺の海域に点在する島々が聖域と呼ばれ、唯一 世俗の権力の及ばない場所とされていた。
誰もが、女神アテナに守られて戦の外にある聖域に住みたいと願っていたが、そこに住む者には資格と義務が求められる。
何よりも平和を深く求める心と、平和の地を守る一助となることのできる肉体的もしくは技術的強さ、そして、私欲を完全に捨て去ること。
聖域は、弱者を無制限に受け入れる楽園のような避難所ではなかった。
そして、瞬と星矢は、今は聖域に入る資格を持たない非力な子供にすぎなかった。






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