- II -






「堅固な城を準備した。アテナの結界が張られている。おまえはしばらくそこに身を潜めているようにとの、アテナのご命令だ」
氷河が瞬を連れていったのは、瞬が暮らしていた村と聖域のちょうど中程に当たる場所にあり、人里から離れた森の中に隠れて建っているような城砦だった。
どうやら相当昔に物見のために建てられた砦らしく、高い石造りの尖塔がある。

一見したところでは崩れ落ちた無人の城砦だったが、城の中には十分に人が生活していけるだけのものが揃い、居住区は整備されていた。
新しい上等の服、食料、風呂、やわらかい寝台。
質素な生活に慣れた瞬には贅沢と思えるほどのものが、そこには用意されていた。

だが瞬には、それらのものや、『聖域はおまえを保護することを決めた』という氷河の言葉より、氷河その人が自分の側にいてくれることが何より嬉しく、そして安心できることだったのである。
氷河が側にいてくれれば、なぜこんなことになったのか自分でも理解できない災厄を、もう一人で悩み耐える必要はなくなる。
何をどうすればいいのかわからず途方に暮れていた者を、氷河が側にいて支えてくれる――のだから。

氷河は、その青い瞳や金色の髪は2年前と全く同じだったが、他の部分はすべてが少しずつ違うものになってしまっていた。
聖域での暮らしは相当に厳しく、だが衣食住の面では不自由のないものであるらしい。
氷河は背が伸びただけでなく、胸の厚みが増し、手足は以前より はるかに筋肉質になっていた。
表情も引き締まっていたが、瞳の奥の輝きだけは 瞬の知っている氷河のもので、それは2年前と同じように、瞬を気遣ってくれていた――そのように、瞬には見えた。

その氷河が瞬のために用意された部屋にやってきたのは、食事と入浴を済ませた瞬が、屋根の下にある寝台で眠ることのできる幸運をやっと実感し始めた頃だった。
部屋の中央に置かれたテーブルの上に左の腕を置き、氷河は重苦しい口調で瞬に語り始めた。

「おまえは聖域には入れない。聖域は、おまえを聖域の内に――アテナの加護の届くところに保護したいと思っているんだが、おまえが聖域に逃げ込む前におまえの身柄を確保しようと目論んだ5大国の王たちが、既に聖域の周辺に軍を派遣してきているんだ」
「まさか……! 僕がハーデスの誘いを断ったのは、つい数日前だよ。軍を動かすなんて……!」
氷河の言葉に、瞬は青ざめた。
アテナのいる聖域に逃げ込むこができないということより、聖域の周辺に既に軍が配備されているということに驚愕して。

神は 一にして多。
ハーデスが同時に異なる場所に出現して王たちの野心を煽ることは可能かもしれないが、軍を動かすのは神ではなく人なのである。
そんな迅速な対応が、王とはいえ神ならぬ身の人間に可能なのか――と、瞬は信じられない思いを抱くことになったのである。
が、瞬はすぐにその現実を納得せざるを得なくなった。
王たちは、もともと他国の侵略のために本国を出ていた兵を動かしたにすぎないのだろう。
現在どの場所がどの国の王の支配下にあるのかもわからないほど、この世界の勢力図は入り組んでいた。

それは人にもできることなのだ――と得心できると、現状は瞬にとって驚異ではなくなった。
少し落ち着いた瞬は、そして、これまでの出来事をすべて氷河に打ち明けたのである。
とはいえ、瞬にできることは、自分が見聞きした事実を語ることだけで――瞬は、氷河に語れることをさほど多くは持っていなかった。
なにしろ瞬は、ハーデスがなぜ自分が選んだのかということすら わかっていなかったのだ。
改めて困惑の表情を浮かべた瞬に、氷河が薄い笑みを向けてくる。

「奴は、自分の依り代に地上で最も清らかな者を選ぶんだ。奴がその心身を支配するのに、その人間の欲があっては面倒だし、それに……綺麗なものが好きな神らしい」
そう言って、氷河は瞬の頬にその手で触れてきた。
自分の頬が上気するのを、瞬は自覚することになったのである。
氷河は、瞬が知る限りで、最も美しい人間だった。
そんな人間にそういうことを言われるのは、こそばゆさを通り越して気まずささえ感じたが、それでも、氷河にそう言ってもらえることが瞬は嬉しかった。

気恥ずかしさから生まれた笑みを口許に浮かびかけ、はっと我にかえる。
神は気まぐれなものなのだろう。
だが、神の言葉や誓約は――たとえ気まぐれに口走ったものにすぎなくても――、絶対のものだということを、瞬は知っていた。
にも関わらず、瞬の『星矢が生き別れのお姉さんと会えますように』という願いは叶えられることがなかった。
これはいったいどういうことなのか――旅の間中、胸に引っかかっていた気掛かりを口にすると、氷河は、それは当然のことだというように、瞬に顎をしゃくってみせた。

「星矢は、おまえを自分のものにしていないからな」
「どういうこと?」
「ハーデスは、おまえの清らかさに惹かれ、固執した。ところが、おまえはその清らかさのせいで、ハーデスを拒んだ。おまえに拒まれたことで、奴はおまえの清らかさを憎むようになってしまったんだろう。意趣返しに、おまえの肉体だけでも汚すことを考えたらしい」
「え?」
「つまり――」

これまで使ったことがないほど やわらかい寝台を椅子代わりにして腰掛けていた瞬の前に、氷河が立ちはだかる。
瞬の首を掴みあげるように、氷河はその右手を瞬の方にのばしてきた。
瞬は一瞬、自分が氷河に絞め殺されるのかと思ったのである。
だが、彼はそうしなかった。

瞬が着替えたばかりの真新しい服を、氷河の手が乱暴に引き剥がす。
「おまえを自分のものにするというのは、こういうことだ」
到底 優しいとは言い難いその所作に、瞬は、この氷河が瞬の知っている氷河とは何かが違うことに、初めて気付いたのである。






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