「他の誰にも渡したくなかった。他の奴等はもちろん、聖域の誰にも」 起こした上体を瞬に抱きしめられた氷河が瞬にそう告げる声には、自らの再生を喜ぶ色はなく、むしろそれは抑揚のない低い呻きだった。 自分が生き続けることを、氷河はもしかしたら望んでいなかったのかもしれないという不安にかられ、瞬は悲痛な目で彼を見詰めることになったのである。 「だが、おまえにかけられた呪いのせいで、俺はおまえに好きだということができなくなった。そうするつもりで、おまえが聖域に来るのを待っていたのに」 「どうして……」 「おまえを好きだと言ったら、おまえが欲しいと言ったら、それは俺に力をくれと言っているようなものじゃないか。俺が欲しいのは、おまえを愛し抱きしめる権利だけだったのに」 氷河が言葉を途切らせて、大きく息を吐く。 彼は、そして彼の唇を噛んだ。 「おまえに余計な付属物がついてしまったせいで、俺は、おまえにおまえを求めることができなくなった。それ目当てと思われることはプライドが許さなくて――いや、おまえにそんなふうに思われてしまったら、俺は、俺の心が哀れだと思ったんだ……」 「氷河……」 「アテナは聖域におまえを保護しなければならないと言った。俺にその仕事を命じた。間違ったことを望まない者を選んだつもりだと、アテナは俺に言って――彼女は俺がおまえを好きでいることを知っていたから」 「なぜ……?」 氷河は、瞬のその問いかけには答えなかった。 もうすぐ幼馴染みが聖域に来ると、浮かれて皆に触れまわっていたとは、言いにくかったのである。 瞬が聖域に来る前から、誰も瞬には手を出すなと聖域の住人たちに釘を刺してまわっていたことが、アテナの耳に届いていたのだということは、瞬も知らずにいた方が幸せでいられるだろう。 「他国の王や地上の権力者に渡すくらいなら いっそ自分のものにしてしまえと、言葉にはしなかったが、アテナは俺に命じた――おそらく」 随分と大らかな女神もあったものである。 瞬は、処女神アテナの計らいに 軽い目眩いを覚えたのだが、アテナとはそういう女神であるらしい。 そして、氷河は、そういう女神を好ましく思っているらしい――と、瞬は察した。 「俺は、おまえを俺のものにするための大義名分を得た。俺はおまえを他の誰にも渡したくなかった。おまえが欲しかった。あさましいくらい、おまえが欲しくてならなかった」 氷河は、まるで そんな自分を恥じ憎むように呻いた。 瞬に向ける氷河の好意の中には肉欲が含まれていたのだろう。 「だが、大義名分を得たからといって、渡りに船とばかりに それに便乗できるか。おまえを誰かの命令で俺のものにすることなど、俺にはできない。だが、それで手をこまねいていて、誰かにおまえを奪われるのはもっと嫌だった。俺は、アテナの命令に逆らって聖域の裏切り者になり、卑怯者になりさがって、おまえを閉じ込めることしか――おまえを支配することで、おまえに嫌われ憎まれることしか……自分を納得させる方法が、それ以外に思いつかなかった」 愛している者に憎まれることで、氷河は自分に罰を与えながら、瞬の肉体を我が物にしたのだ。 氷河に犯されることに自分が嫌悪を覚えなかった――むしろ嬉しかった――理由が、瞬にはわかったような気がしたのである。 瞬は、いつの時も氷河に心で抱きしめられていたのだ。 瞬がその事実に気付いたことを察して、氷河は僅かに気まずそうに――あるいは気恥ずかしそうに、瞬から視線を逸らし、その場に立ち上がった。 つい先程まで、彼が背を向けて戦っていた城砦を見上げ、呟く。 「この城は本当に聖域のものなんだ。アテナの結界が張られていたはず。なぜあの兵たちは入ってこれたんだ――」 氷河の呟きは、瞬にではなく、この場にいないアテナに問いかけるものだった。 その答えに、氷河は心当たりがないでもないようだった。 瞬にも、おぼろげながらわかっていた。 アテナはわざと彼女の結界を解いたのだ。 死の国の王に見込まれた少年と、その少年を愛する者の心を試すために。 「それは……もしかしたら、だけど、アテナは氷河にさっさと『自分の恋が成就するように』と願わせてしまった方が安心できると考えたんじゃないかな。それがいちばん手っ取り早い事態の収拾法だ――って」 「彼女なら考えかねない。聖域に戻って、アテナに文句を言わなければ」 意識して作った忌々しげな視線を聖域のある方角に投げた氷河の胸に、瞬は額を押しつけたのである。 氷河はなぜ自分を抱きしめてくれないのかと、少し拗ねる気持ちで。 「最初から、本当のことを言って、僕と一緒にいたいと望んでくれればよかったのに」 「俺は、それを俺自身の力と努力で手に入れたかったんだ。おまえに与えられるのじゃなく」 氷河が、星矢と全く同じことを言う。 瞬は苦笑せずにはいられなかった。 「氷河ったら、それでよく星矢を馬鹿にできたね。星矢とまるで同じじゃない」 瞬のその言葉に、氷河は少なからず傷付いたらしい。 傷心の恋人をなだめるために、瞬は真顔になって彼に尋ねた。 「僕は、もうハーデスに押しつけられた力を自分の選んだ人のために使ってしまって、普通の――ただの人間に戻ったんだから、今度こそ自分の意思で氷河のものになってもいいよね?」 「それは無理だ」 「ど……どうして」 当然のことのように、あっさりと氷河が言う。 ハーデスの呪いの他にも、二人が共に生きることを妨げる何かがあるのだろうか。 瞬は、泣きそうな目で、氷河を見上げることになったのである。 「俺が もう おまえのものだから」 氷河が、やはり淡々とした口調で、瞬が氷河のものになれない理由を告げる。 照れた様子もなく そんなことを言ってのける氷河が、瞬は少し憎らしかったのであるが、氷河がそうだと主張いるものを否定しても始まらない。 だから瞬は、自分から両手を伸ばして、氷河の身体を抱きしめたのである。 「じゃあ、もう二度と放さない」 そして、瞬はその言葉通りにした。 Fin.
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