「マーマに紹介したい子がいるんだ」 氷河が私にそう言ってきたのは、ある日の夕食の最中だった。 北の大地からは初雪の便りが届き、東京でも日一日と気温が下がっていく季節。 だというのに、少し落ち着きのない様子で私にそう切り出した我が息子の表情は、まるで春の訪れに浮かれて次々に緑の芽を芽吹く 若い楢の木のようだった。 本当に芽吹いてもいいのかと辺りの様子(つまり、私の表情ね)を窺いつつ、それでも逆らい難い力に突き動かされる春の新芽。 氷河は、いつもの彼らしくなく、私に見てとれるくらいはっきりと その頬を上気させてさえいた。 『ついにこの日がきたか!』と、私は滅茶苦茶緊張したの。 自分でもどんな顔をしたらいいのかわからなくて、だから、表情も変えなかったけど。 いつかはこんな日がくるとは思ってた。 だけど、まさかそれが今日だったなんてと思いつつ、私は、箸でつまんでいた筑前炊きのタケノコをぽいっと口の中に放り込んだのよ。 夫が事故で亡くなった時には、小学校にも入学していなかった氷河。 あの日から女手ひとつで育ててきた一人息子も、あと数ヶ月もすれば、高校を卒業し大学生になる。 私は とうの昔に背を追い越され、子供の頃には細く頼りなかった氷河の腕や肩は、今ではすっかり大人の男のそれ。 あの頃に比べたら、いったい我が息子の容積は何倍になったのかと疑わずにいられないほど、でかい図体になっちゃって。 あ、もちろん、氷河が太っているというわけではないわよ。 私の息子は、母親の私が見ても見事としか言いようのない理想的なプロポーションの持ち主で、筋肉質ではあっても、断じて太ってなんかいない。 私の息子だけあって極上の美形だし、私だって、氷河が女の子にもてないはずがないとは思ってた。 この日がくることはわかっていたし、覚悟もしていたわ。 でも、ショックはショック。 仕方ないでしょう。 一瞬だって私の側から離れたがらなかった私の小さな氷河が、私だけの氷河じゃなくなろうとしてるんだから。 幼稚園では誰よりも可愛い男の子だった私の息子が、他の誰かの男になろうとしているんだから。 母親ってものは、自分の息子にはいつまでも天使でいてほしいものでしょ。 私の天使願望を知ってるから隠しているみたいだけど、氷河はもう毎朝ヒゲを剃っているみたいで……あああ、いやいやいや。 私の可愛い氷河にヒゲだなんて、おぞましい! まして、氷河が、私の知らない女の子とあんなことやこんなことをしたりするのかと思うと、そんなこと想像しただけでぞっとするわ! まあ、あと10年しても、その兆候がなかったら、また別の意味で心配することになるんでしょうけど、私は今はそんなこと考えたくない。 それにしても、我が息子は、TPOというものを心得ていないわ。 いつもより美味しくできた筑前炊き。 どうしてよりにもよって今日なのかしら。 そう思ったら、なんだか私は無性に腹が立ってきた。 私が黙っていると、氷河はそれを了承の沈黙と考えたらしく、勝手に話を進め始めるし。 「それで、その時だけでも、マーマのことを『かあさん』と呼ばせてほしいんだ」 なんて勝手なことを! これまで育ててもらった恩も忘れて、私の氷河がそんなことを言い出すなんて。 それも、氷河が私に紹介しようとしてる女の子のせいなの? だとしたら、私に、その子に好意を持てと言うのは、無理な要求というものよ。 氷河にそんなことを言われてしまった私は、さすがに黙ってレンコンの味を味わってなんかいられなくなった。 「氷河、ひどいわ! どうしてそんなこと言うの! 氷河が初めて私のことを『マーマ』って呼んでくれた時、私がどんなに感激したか、氷河にはわからないのっ」 「あ、いや、しかし……高校生にもなった男が人前で母親をマーマ呼ばわりしていると、マザコンの疑いをかけられかねないし……。俺の立場も考えてほしいんだ」 氷河の立場! そんなことは社会に出て働いて、国に税金を納めるようになってから言ってほしいもんだわ。 「じゃあ、マーマの立場はどうなるの! 言っておきますけど、あなたはまだ高校生。誰を連れてきても、マーマは絶対に結婚なんて許しませんよっ!」 「いや、俺も、さすがに結婚までは……」 話を思い切り飛躍させた私に、氷河は面食らったみたい。 まあ、それはそうでしょうね。 この若さで扶養者持ちになるなんて、どれほど好きな子がいても、大抵の高校生は考えないはずだもの。 「結婚を考えているわけじゃないの? そんないい加減な気持ちで付き合っているのなら、そんな子とは さっさと別れちゃいなさい。マーマも会うつもりはないわ」 シイタケに箸を突き刺して、私はきっぱり言い切った。 「長いお付き合いになるわけでもない人とお近づきになって、何になるの。氷河がその人と別れたあとで、どこかで顔を合わせた時、気まずい思いをするだけでしょ。私はそんなのは御免よ」 「そうはいかないんだ!」 あら、氷河が私に逆らってくる。 私の氷河は、ほんとに いつのまにこんな生意気な子になったのかしら。 「なぜ?」 「マザコンと思われるのを危惧して家族の話をせずにいたら、星矢や紫龍たちが、その子に 俺はマザコンだなんだと勝手なことを吹き込んでくれやがったんだ。こないだ ついに『お母さんがそんなに好きなの?』と真顔で訊かれてしまった。そうじゃないことを示しておかないと、あとあと何かと問題が――」 『そんなに好きなの?』と訊かれたら、『もちろん大好きだ』とでも答えておけばいいじゃないの。 なぜ氷河はそうすることができないの。 あ、ちなみに、星矢ちゃんや紫龍くんというのは、氷河の幼馴染み。 星矢ちゃんはとっても元気で気性のまっすぐな男の子。 ちょっと落ち着きがないとこもあるけど。 で、紫龍くんは理知的な印象の勝った――あれは、知的俗物とでもいうのかしら。 人情に通じた なかなか興味深い男の子よ。 まあ、『男の子』と言ったって、氷河並みにでかい図体の持ち主だけど。 「そんなの、その子の策略に決まってるでしょう。氷河が自分を家族に引き合わせなければならないような状況をわざと作って、この家に入り込み、家族ぐるみのお付き合いを始めて、そのまま なし崩しに氷河と結婚しちゃおうなんてことを考えてるのよ! 氷河はもう少し自覚を持ちなさい。私の息子だけあって、あなたは超美形、女の子なら誰だってあなたを彼氏にして得意がりたいと思うに決まってるんだから」 そうよ。そうに決まってるわ。 私は別に、私の息子が外見だけの男だなんて言うつもりはないけど、でも、たかだか10代の女の子に、私の氷河の真価が見極められるものかしら。 見極めようとしたって、そうする前にこの美貌に目が眩むのが落ちよ。 私はそう確信して、唇を引き結んだ。 そんな私の勢いに押されたように、氷河が嘆息して首を横に振る。 「それはない。俺は学校でも変わり者で通ってて、こんな俺に興味を持ってくれるのは――」 「変わり者 !? 氷河、もしかしたら、学校でいじめを受けてるの? ああ、私ったら、のんびり筑前炊きなんて作ってる場合じゃなかったのね。明日にでも学校に行って、校長先生に談判してこなくては!」 「そんなみっともないことはやめてくれっ!」 固い決意をたたえた私の表情に慌てた氷河が、悲鳴をあげる。 と言っても、氷河の声はもう可愛いボーイソプラノじゃなく、野太い男の声だったけどね。 でも、これは話を逸らすのにいい手だったわ。 私は調子に乗って、更に言い募った。 「だって、氷河は、学校でいじめに合ってるんでしょ? ハーフだの、片親だの、綺麗すぎるだの言われて、私の氷河がみんなに妬まれ、迫害されているんだわ。なんてことでしょう。氷河が綺麗なのは、氷河のせいじゃなく、私のせいなのに……!」 「俺をいじめられるような恐いもの知らずが、そうそういるわけがないだろう。落ち着いてくれ。そんなことで学校に飛んでいって教師に直談判なんかしたら、マーマが笑われるだけだ。俺だって笑いものになる」 「私の氷河が笑いものになるなんて、ひどい学校だわ!」 「だーかーらー!」 まるで息子の話を聞かない母親に、氷河は切れかけているみたい。 けど、もう何でもいいわ。 私が、氷河の紹介したい子に会わずに済むようになるのなら。 私は、氷河の前でさめざめと泣き出して(自慢じゃないけど、泣き真似は得意よ)、氷河はそんな私にあたふたし始めた。 当然、彼女を呼ぶ話どころじゃなくなって、その件はうやむや。 どんなでかい図体になったって、やっぱり氷河はマザコンよ。 そして、氷河は、私が異国の地で たった一人、苦労を重ねて一人息子を育てあげたことを知っている。 私が泣き出したら、氷河は、私の涙が空涙だとわかっていても、それ以上無理は言えないの。 ともかく、そういう大騒ぎの果てに、私は何とか窮地を脱することができたわけ。 |