そこに、瞬が一輝を連れて戻ってくる。
瞬の両手は兄の右腕に絡みついており、それが氷河の気に障ったらしい。
瞬にまとわりつかれていることを決して喜んでいるように見えない一輝の様子が、氷河の不機嫌に一層拍車をかける。

すっかり拗ねた様子で 兄弟から離れた場所にある椅子に腰を下ろした氷河は、わざとらしく大きな咳払いをして、結局片付けられないままの本がテーブルの上にあることを、瞬に示した。
が、瞬は、氷河の意図に反して――否、むしろ案の定―― 一輝をだらしないと叱らない。
瞬は氷河の指摘に気付かぬ振りをして、さりげなく その本をラックの中に収めようとした。
それで氷河は、もはや沈黙を守っていることができなくなったのである。
彼は、一輝のだらしなさを隠蔽しようとする瞬を、大声で怒鳴りつけた。

「ちゃんと一輝を叱ったらどうだ! 俺だけが2冊分 おまえに叱られるのは理不尽だとは思わんのか!」
「何のことだ」
「あ……ううん、別に何でも――」
一輝に問われた瞬が慌てて首を振って、その場をごまかそうとする。
しかし、瞬の隠蔽工作は星矢によって妨げられてしまった。
「おまえが読んで放り投げといた本をさ、氷河が散らかしたんだと思い込んだ瞬が、出したものは片付けろって氷河をシツケたんだよ」

星矢は別に瞬の邪魔をしようとしたわけではなく、氷河の肩を持ったわけでもない。
彼は、単に事実を事実として、一輝に報告しただけだった。
その事実報告を受けた一輝が、微かに顎をしゃくる。
それから彼は、全く同情していない様子で、
「それは災難だったな」
と、氷河への同情の言葉を吐いた。
その言葉を聞いた氷河が眉を吊り上げる。
「災難で済むか! たまにしか帰ってこないからって、手土産の一つも持ってこない男がなぜこんな特別待遇を受けなければならないんだ!」

氷河の怒りは至極尤もである。
人間はすべて平等に 生命・自由・幸福を追求する権利を有するという基本的人権の見地から見ても、また論理学的にも。
しかし、これが人間の情、あるいは宗教的な面でも是であるかというと、話は少々違ってくる。
一輝は、憤怒の罪を犯している(仮にも)キリスト者に、重々しい口調で“説教”してのけた。
「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見付かったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たりまえではないか」

一輝が口にした文句の出典を知らなかったのは、その場では星矢のみ。
「一輝の奴、急に何を言い出したんだ?」
星矢は、とりあえず、この騒動の当事者でない唯一の仲間に、一輝の言の説明を求めた。
星矢のご指名を受けた紫龍が、嘆息混じりに解説をする。
「『ルカによる福音書』にある放蕩息子の帰還の話だ。家出していた不良息子が家に帰ってきたことを大喜びする父親に、孝行息子がクレームをつけるんだ。その時、父親が言ったクレーム対応の言葉だな。もう帰ってこないと思っていた者が帰ってきたことを喜ぶのは当たりまえのことだ、と」

紫龍の解説など不要だった氷河は、だが、その解説を聞いて更に怒りが大きなものになったらしい。
こめかみを引きつらせながら、ともすれば怒声になりそうな声を懸命に抑えつつ、彼は瞬の兄に嫌味たらしい視線を向けた。
「貴様に、聖書の文句を持ち出されるとは驚きだ。アベルとカインしかり、ベタニアのマリアとマルタしかり、聖書は、確かに理不尽な 依怙贔屓話や、勤勉で真面目な者が馬鹿を見る逸話が多いな。意外におまえ向きの宗教なのかもしれん」

「おまえが信じている神は、依怙贔屓が激しいので有名だからな。まあ、神々にも好みというものはあるだろうから、それも仕方あるまい。おまえは、おまえの神に嫌われているんだ、おそらく」
その神の名が『ヤハウェ』というのなら、そんな神に嫌われたところで痛くも痒くもないが、もし その神の名が『瞬』というのであれば、氷河にとってそれは聞き捨てならない言葉だった。
ぎり、と、氷河が奥歯を噛みしめる音が、一触即発状態のラウンジに不気味に響く。

星矢と紫龍が、睨み合う二人を落ち着かせるべく仲介の労を取ろうとしたのは、一輝と氷河の争いを恐れるからではなく、あくまでも瞬のためだったろう。
こうなると放蕩息子も孝行息子も大した差はなく、彼等は同様に厄介な男たちである。
その二人に交互に困惑の視線を投げながら、瞬は先程から、傍目にも気の毒に映るほど おろおろし続けていた。
「口ではそう言いながら、おんなじ本を買って読んでんだよな、おまえら」
「価値観が似ているんだ。だから、相手のことがよくわかり、そういうテンポのいい皮肉のやりとりもできるわけで――もう少し仲良くしたらどうだ。おまえらの神様が真っ青な顔をしているぞ」

見ると、確かに紫龍の言葉通り、彼等の神の頬は青ざめている。
そう言われてしまっては、氷河も一輝もさすがに それ以上 瞬の前で険悪の空気を濃くすることはできなかった。
ほとんど同タイミングで「頭を冷やしてくる」と言った二人は、自分たちの声がハモったことも不快げな足取りでラウンジを出ていった。
もちろん、それぞれ別方向に。

この平穏は一時的なものではあろうが、ともかく戦端は開かれることなく回避された。
星矢は馬鹿げた戦いが勃発せずに済んだことに安堵して、緊張から解放された顔を瞬に向けたのである。
とりあえず見苦しい争いを回避できたことに、瞬は気を安んじているだろうと考えて。

しかし、どういうわけか、瞬の頬は相変わらず――というより、むしろ先程より一層――青ざめていた。
瞬のその様子を奇妙に思い、星矢は首をかしげることになったのである。






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