「おまえは色々考えすぎなんだ。おまえは、おまえの兄を不幸な男だと思っているんだろう。一輝と同じ者に愛されている人間として断言するが、それはない」
「氷河……!」
それまで力なく項垂れ、仲間たちに大人しく説得されているようだった瞬が、初めて明確に狼狽の色を見せる。
やはりそうだったのだと、氷河は内心で舌打ちをした。
瞬の迷いが一輝絡みのことだということは、最初から察しはついていたのであるが。
瞬の様子がおかしくなるのは、一輝が瞬の許に帰ってきた時だけなのだから。

二人が作る世界は完全だとか、“氷河”のために自分は彼の側にいるべきではないとか、そんな尤もらしいことを並べたてながら、瞬が本当に悩み考えていたのは、二人のことでもなく、“氷河”のことでもなく、自分の兄のことだったのだ。
“氷河”が不機嫌になることがわかっているから、瞬はどうしても本当のことを仲間たちに言ってしまうことができなかったのだろう。
氷河は、もちろん、瞬の真意が非常に不愉快だった。
“氷河”の幸不幸を考えている振りをして、その実、瞬が考えていたのは兄の幸不幸だったのだから。

「可愛い弟は気に入らない男に取られるし、そのせいか何か仲間たちの側には滅多に戻ってこないし、一輝くらい不幸な男はいないと、おまえは勝手に決めつけて、一人で罪の意識にかられて落ち込んでいたわけだ」
氷河は極力 不快の念を表に出さないよう努めたのだが、すべてが氷河にばれたことを知らされた瞬には、氷河の声が優しいものでも怒りを含んだものでも同じことだったろう。
氷河に隠れて兄を思っていたのは事実なのだから、その一点だけでも、氷河が不機嫌でいることは、瞬にはわかっていた。
しかし、もはや嘘をつき通すこともできない。

「僕は……兄さんに愛してもらっても何も報いることができないし……。わかってる。兄さんは報いなんて求めてないし、そんなものを期待して僕を庇い守ってきてくれたのでもない。でも、だから かえって、兄さんに何もしてあげられない自分が歯痒くて、もどかしくて――」
氷河を不機嫌を加速させることを覚悟して、兄に出会うたびに自分が囚われてきた思いを氷河に告げる。
それは氷河に非難の言葉を浴びせられることを覚悟しての告白だったのだが、氷河は瞬を怒鳴りつけてはこなかった。
代わりに、瞬のそれに似た苦しげな言葉が、瞬の耳に届けられる。

「俺は、多幸とは言い難い非力な女性に命をもらい、庇い守られて育ち、最後には 彼女の命を代償にして、自分の命を永らえる羽目になった男だぞ。無論、彼女の愛に報いることもできず、そんな自分の無力に歯噛みして生きてきた。おまえと同じように」
「あ……」
おまえと同じように――。
瞬が恐る恐る顔をあげると、そこには、瞬がいつも鏡の中で出会う瞳と同じ翳りを帯びた瞳があった。
愛されることに傷付き負い目を感じているような、切なげな瞳。
その瞳が、次の瞬間、ふと和らぐ。

「だが、おまえを好きになってわかった。親や兄や師、そういう者たちから与えられた恩や愛に完全に報いることは、子や弟や弟子にはできないんだ。俺に命をくれた人たちに、同等の愛や恩を返すことは、どうしたって不可能だろう。だから、俺たちは別の人にそれを与えることで、愛や恩を返すしかない」
「別の人……に?」
「一輝は、おまえが人を愛せる人間になってくれたということだけで、報われているんだ。それは、奴がおまえを愛したことの証だ。奴に愛されたから、おまえは人を愛するということがどういうことで、どんなふうに愛すればいのか、その術を知ったんだから。奴は、おまえに愛されている大勢の人間の中に、俺が混じっていることが気に入らないだけで――だが、それでも、奴の愛は報われているんだ」
「……氷河のマーマも?」
「彼女が命を懸けて守った息子が、ちゃんと人を愛せる素直ないい子に育ったんだから、当然彼女は満足している」
「氷河……」

氷河の言う通り、彼女は満足しているだろう。
しかし、氷河はそうではない。
氷河は、彼が彼の母からもらった愛情と命を、幾倍にもして彼女に返したかったはずである。
だが、彼にはそうすることはできない――永遠にできない。
氷河の無念がわかるだけに、瞬は胸が詰まるような苦しさを覚えたのである。
『彼女は満足している』――そんな言葉を氷河が明言してみせるのは、ひとえに彼が今愛している者のため――詰まらぬことで思い悩んでいる愚かな恋人のためなのだ。

「俺もな。俺なんかに愛されてくれる おまえに、俺は心から感謝しているぞ。これ以上の報いなどない」
「ご……ごめんなさい……!」
氷河にこれ以上 何かを言われたら、泣いてしまう。
氷河にもう何も言わせないために、瞬は、彼にしがみつくようにして氷河を抱きしめた。
瞬の気持ちを察したのか、氷河がそれ以上言葉を重ねることをやめる。

「ご……ごめんね。僕、自分だけが幸せでいるような気がして、恐くなっちゃったの。氷河や兄さんは きっと僕ほどには幸せじゃないって思ったら、すごく申し訳ないような気持ちになっちゃったの。でも、そんなことは…… 一人で勝手に他人を不幸と決めつけるなんて、すごく傲慢なことだった。ごめんなさい……!」

兄は幸福なのだ――少なくとも不幸ではない。
そう信じられることが今の瞬の救いであり、氷河の言葉は、瞬にその確信を与えてくれるものだった。
氷河が言う通り、あの人が不幸なはずがないと思う。
あの人が出来の悪い弟を愛し続けてきたことを後悔しているのでない限り。
そして、瞬の知っている瞬の兄は、人を愛したことを後悔するような人間ではなかったのだ。

「兄さんとマーマと……返しきれないほどの愛をもらって――似ているのは、僕と氷河の方だったんだね……」
氷河の胸の中で、ぽつりと呟く。
誰が誰に似ているとか似ていないとか、そんなことはもうどうでもいいことだったが、それでも瞬は、自分に氷河と重なる部分があることが、不思議に嬉しかった。
おそらく 人には、誰にでも、似ている部分と似ていない部分があるのだろう。
だが、誰も全く同じではない。
だからこそ人は、誰にも存在する意味があり、誰にも愛し愛される価値があるのだ。

今度兄が帰ってきた時には、兄が幸せでいるのかどうかを訊いてみようと思う。
『僕を好き?』ではなく、『兄さんは幸せ?』と。
兄は、『僕を好き?』と尋ねられた時と同じ答えを返してくるのだろう。
その時の兄の眼差しを思い浮かべて、瞬は、氷河の胸の中で切なく笑ったのである。





「あいつらに ここまで鮮やかに無視されてる俺たちこそが、この世でいちばん不幸で同情されるべき人間だと思うんだけど」
二人きりの“完全な世界”を作り、その中に浸りきっている氷河と瞬の世界の外で、自分たちの立つ瀬はどこだと言わんばかりに星矢がぼやいた声は、もちろん似た者同士の恋人たちの完全な世界に潜り込むことすらできなかった。






Fin.






【menu】