- II -






牢を出されたシュンが連れていかれたのは、ローマ軍の城砦内にある司令官の私室だった。
ローマ人が“野蛮人”たちを支配するために、ブリタニアの深い森を切り開いて建てた堅牢な石造りの館。
ローマ人の建築技術には、シュン自身、(悔しいことだが)一目置いていた。
一度その中を見てみたいとは思っていたのだが、その願いがこんな形で叶うとは。

採光や空気の流れが考慮された造りの部屋。
巧みに使われた種々の布が石の冷たさを覆い隠し、その部屋を快い居住空間にしている。
華美ではないが質素でもなく、ローマの歩兵大隊を任される将軍の尊厳を損なわないだけの格式を、その部屋は持っていた。
それは本来なら実に興味深い光景だったのだが、シュンは今は落ち着いて その部屋を観察する気にはなれなかった。
ローマの司令官の意図がわからないことが、不安でならない。
冷たい石の壁と硬い木の寝台しかない牢の中でも、シュンはヒョウガの許に戻りたかった。

ローマ軍 百人隊長のシンボルともいえる羽飾りのついた兜を取って、ローマ軍の司令官がシュンの前に立つ。
初めてまともに見たローマの司令官の顔は、“野蛮人の王”であるヒョウガより、よほど野生的な印象を与えるものだった。
だが、決して醜くはない。
むしろ造作は端正で、ヒョウガと同じように全身に快い緊張感をまとっている風情は、シュンに好感をさえ抱かせるものだった。

その男が、不遜な口調でシュンに尋ねてくる。
「おまえの名は」
「シュン」
知っていることをなぜ聞くのかと訝りつつ、シュンは問われたことに――問われたことだけに――答えた。

「生まれは」
「ブリタニア。……多分」
「あの男との関係は」
「幼馴染みです。僕は捨て子で、ろくに口もきけない歳の頃にブリトン族の村の外れで泣いていたのをヒョウガが見付けてくれて、ヒョウガに拾われて――ヒョウガのお母さんに、彼と一緒に育ててもらった」
「それだけか」
「質問の意味がわかりません」
質問の意味よりも、そんなことを尋ねてくる司令官の意図こそが、シュンにとっては謎だった。
その困惑を“敵”に悟られることが癪で、シュンは努めて無表情を装い続けたが。

「おまえは、血の繋がらない幼馴染みへの友情だけに突き動かされて、命の危険も顧みず、一人で敵陣に乗り込んできたというのか」
「いけませんか」
「野蛮人には友情などないだろう。愛情も節度も規律もない。あるのは、不従順と獣まがいの欲望だけだ。どこででも淫らに獣のように交わり合うと聞いた」

いったいローマ人は ローマ人以外の人間を何だと思っているのか。
否、そもそも人間だと思っているのか。
シュンは、ブリトン族の“人間らしさ”を示すため、ローマ軍の司令官に皮肉で答えた。
「ローマ宮廷の人倫の乱れは、野の獣たちも、おぞましさのあまり逃げ出すほどだと聞いていますが」
「なに」

獣は皮肉を言うことをしない。
野蛮人の切り返しが意外だったのか、あるいは、その風聞が事実だったからなのか、ローマ軍の司令官は、僅かに眉をひそめた。
ローマ人の考えや反応など、シュンにはどうでもいいことだったが。

「何をもって淫らと言うんですか。僕とヒョウガが肉体的な交わりを持っているのかというのなら、それはその通りだけど、僕はヒョウガを愛してるし、ヒョウガも僕を――」
「黙れっ!」
それまで、どちらかといえば不審感を覚えるほど冷静で穏やかでさえあった司令官の表情と声が、突然荒々しいものになる。

それが 思いあがったローマ人らしい高圧的な態度であったのであれば、シュンは涼しい顔で受け流すこともできたのだが――なぜかローマ軍の司令官の声音には、悲痛な怒りのようなものが含まれていた。
その激しさに触れ、シュンはびくりと身体を震わせてしまったのである。

シュンはローマ人の考えや反応などどうでもいいことだと思っていたのに、ローマ人の方はそうではなかったらしい。
シュンが身体を震わせる様を見ると、彼はなぜか――“野蛮人”のために、自身の怒りを抑えようとした――らしい。
その声から怒りによる震えを完全に消し去ることはできていなかったが、彼が野蛮人を怯えさせまいと努力していることは、シュンにも感じ取ることができた。

「右の手の平に、白い星の印があるか」
「……あります」
シュンの手を取って、司令官がそれを確かめる。
“敵”の手をシュンは振り払おうとしたのだが、彼はシュンにそうすることを許さなかった。
そのために、シュンは、図らずも自分の手の内にある星と同じものが、ローマ軍の司令官の手にもあることを見ることになってしまったのである。

小指の爪ほどの大きな白い星。
シュンは、これまで それを、本来自分が属する民が特殊な技術で赤ん坊に施す刺青のようなものと思っていた。
しかし、ローマ人にそういう習慣があると聞いたことはない。
なぜそれが、あのローマ軍の軍人である男の手の中にあるのか。
ブリトン族の敵であるローマ人が気にかけているということは、この星には何らかの意味があるのだろう。
今のシュンにわかることは、それだけだった――それしかわからなかった。

その手にシュンと同じ星を持つ男が、扉の側にいた従卒を呼び、命じる。
「牢には戻すな。部屋と着替えと食事と――小間使いを一人つけろ」
思いがけない敵の言葉に、シュンは一瞬、唖然とした。
それがヒョウガの脱出計画に支障をきたす状況を生むことだという事実に思い至り、司令官を睨みつける。

「ヒョウガのところに帰してください!」
「あんな野蛮人のことは忘れろ! おまえは自分を何者だと思っているんだ!」
司令官が何を言っているのか、何を怒っているのか、シュンにはまるで理解できなかったのである。
ローマ兵によって司令官の私室から連れ出されたシュンは、部屋に一人残った司令官の苦渋に満ちた呻きを聞くこともなかったので。


「俺の弟が ブリタニアの野蛮人の情人いろだと……!」
だが、もちろんそれは、彼の弟が望んで堕ちた境遇ではない。
母の手から奪われた時、シュンは、片言で家族を呼び、やっと自分の名を告げることができるようになったばかりの、1歳になるかならずの幼児だったのだから。
その清らかな子供を、ブリタニアの野蛮人たちがよってたかって汚し辱めたのだ。
憎むべきは、無垢で非力な子供にすぎなかったシュンではなく、シュンを汚した野蛮人たちとその王である。
そう思わないことには――彼はやりきれなかった。






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