翌日、結局 ローマ風の膝丈の絹のチュニックと、ローマ市民だけが身につけることを許されているトーガに着替えさせられて、シュンは、自分の兄だという男の前に再度立つことになった。 昨日とは打って変わってローマの貴族然としたシュンの様子を、シュンの兄だという男が満足そうに見やり、そして目を細める。 美しいだけで機能性に欠ける服がそんなに気に入ったのなら、好きなだけ服に見とれていればいいのだと、シュンは思った。 どんな衣装を身に着けさせられても その中身はブリタニアの民、ローマ人が蔑む“野蛮人”なのだと、自虐と自尊のないまぜになった気持ちで。 今はとにかくヒョウガに会わなければならない。 でなければシュンは、自分がこれからどう動くべきなのかを決めることができなかった。 ヒョウガはいつもシュンの洞察力や計画性、決断力を褒めてくれていたが、シュンがその力を発揮できるのは、それが自分のためのことではないから、だった。 ブリトン族の益と幸福のために、民や自分がどう動けばいいのかはわかる。 だが、シュンは、自分のために自分が何をすればいいのか、どう行動すべきなのかということを考え決めることは不得手だった。 何が自分のためになるのか――ということを、客観的に判断することができないのだ。 だから、自分がヒョウガなしでは生きていけないほどヒョウガを好きでいることに気付いた時にも、自分からは何も告げず、ヒョウガの言葉を待った。 シュンのすべきことを決めるのは、いつもヒョウガだった。 ヒョウガに会い、この訳のわからぬ状況を彼に告げ、彼の判断と決定を仰がないことには、シュンは自分の身の上をどうすればいいのか決めることができなかったのである。 「僕をヒョウガのところに帰して。ヒョウガに会わせてください」 それはローマ人への意地や敵愾心から出た言葉ではなく、切実な必要から生じた訴えだったのだが、ローマ軍の司令官はシュンの要求をあっさりと無視した。 「おまえはローマ市民だ。いや、ただの市民ではない。帝位に就く者が出ても誰も異を唱えることはできないだろうほどの名門アウレリウス家の男子。あんな野蛮人のことを気にかける必要はない」 その野蛮人に会うことが、今のシュンにはどうしても必要なことだった。 青く燃えるような瞳を持った、あの誇り高い野蛮人だけが、シュンの生き方を決められる人間なのだ。 「野蛮人 !? どうしてローマ人は、そんなふうに僕たちを蔑むことができるの! ローマは、僕たちから人も食料も土地も家畜も搾取する。自分の手では何も生まず 享楽にふけっているだけのローマの貴族たちが、僕たちの誇りまでを踏みにじる。この島にローマ軍がやってくるまでは、ブリタニアの民は平和に豊かに暮らしていたのに!」 「俺は、おまえの兄だぞ!」 「そんなの、信じられない!」 ヒョウガが『信じろ』と言うのでもなければ、シュンは彼の言葉を信じることはできなかった。 実際に、自分の兄だと言い張る この男は、彼の弟が生きてきた時間を『野蛮』の一言で片付けようとしている――否定しようとしているではないか。 兄なら、なぜそんなことをするのだ。 シュンはそう思ったが、同じことを、ローマ軍の司令官も考えていたらしい。 弟がなぜ、兄のこれまでを否定するのか――と。 「おまえが卑しい奴隷に さらわれた時からずっと探していた。きっと生きていると信じていた……いや、諦めかけていた。半ば以上諦めていたのに捜し続けることをやめられず、ついに出会うことができた。だというのに、その兄の言葉を、おまえは信じられないというのか? ――ブリタニアの野蛮人の慰みものにされていたことを恥じて、あえてそう言っているのなら、これまでのことはすべて忘れろ。この俺が、誰にも そんなことでおまえに後ろ指をささせたりなどしないし、おまえの血はそんなことで汚れるようなものではない。おぞましい過去のことは忘れて、俺と共にローマに帰るんだ」 ヒョウガ以外の人間が、“シュン”のすべきことを指図してくる。 ヒョウガの権利を侵害された気がして――ローマ人はいつもこうなのだ! ――シュンの心は苛立った。 「慰みものというのは何! ヒョウガは僕を愛してくれてる!」 「あんな野蛮人に愛などという感情があるとでもいうつもりか!」 「ローマ人にはそれがあるというのっ !? あるならどうして、静かに暮らしていた僕たちの生活を滅茶苦茶にしたの! ローマなんか知らない! 僕はローマ人なんかじゃない。ローマ人は嫌い。僕はヒョウガを愛してるから、それでいいのっ」 「おまえを十何年間も捜し続けていた兄よりも、あの野蛮人の方を愛しているというのか!」 それが、野蛮人への侮蔑よりも悲痛の色の強い叫びだったので、シュンは言葉を失った。 ここで「そうだ」と事実を告げたなら、自分は自分の嫌いなローマ人と同じことをすることになるのだと、気付く。 自分以外の人間の価値観、自分以外の人間の生活、自分以外の人間の心――を認めず、否定し、そして打ち壊す行為――を。 今 シュンの目の前に立つローマ人の表面に現れている感情は怒りだった。 だが、彼がその瞳の奥で泣いているような気がする。 憎いローマの尊大で頑健な軍人が、シュンにはそんなふうに見えた。 彼が自分の兄――肉親だというのは本当のことだろうか。 瞳の奥に見える彼の涙は本物だろうか。 シュンには 「アウレリアス家を継ぐ者として、俺はローマの都で安穏とした生活を送っていることもできた。おまえを捜すのに好都合だったから、軍人になった。あえて逃亡奴隷の多い辺境の戦地をまわってきた。それもこれもすべて、おまえを探し出して幸せにしてやってくれという母の遺言を叶えるためだ。父もそうだった。おまえを捜し続けて野蛮人の国を転戦し、おまえの父はエジプトの戦で命を落とした。父亡きあとは、俺がそのあとを継いだ。頼むから……兄を失望させないでくれ」 「でも、僕は……」 ローマ人が悲しんでいる――ローマ人でも悲しむことがあるのだ。 怒り、悲しみ、苦しみ、喜び、愛、憎しみ――それらは、国や人種の差もなく すべての人間が持つ心の働きなのだろう。 そしてシュンは気付いたのである。 ローマの横暴に苦しめられ、ローマ人に野蛮人と蔑まれ続けていたために――自分こそが、ローマ人もブリタニアの民と同じように人間であるという事実を忘れかけていたことに。 「母が死の間際まで どれだけ おまえのことを気にかけていたか、父が命も惜しまず おまえを捜し続けていたこと、それまでを否定しないでくれ」 ブリタニアの民の命と誇りを否定し続けてきたローマ人が それを言うかと反駁できるほど、シュンは冷酷な人間にはなれなかった。 彼の言うことは事実――悲しい事実なのだろうと思う。 だが、彼には彼の十数年があったように、シュンにはシュンの、ブリトン族の一人として生きてきた十数年があったのだ。 「……ヒョウガに会わせて……」 ヒョウガがすべてを決めてくれる。 『おまえはローマ人の言うことなど信じず、俺の側にいればいいんだ』と、ヒョウガは言ってくれるはずだった。 そして、ヒョウガがそう言ってくれさえすれば、それが“シュン”が幸福になるための ただ一つの正しい道なのだ。 「よかろう。明日にでも」 シュンが過ごしてきた十数年の年月にローマ人が思いを至らせてくれたとは思い難かったが、シュンの兄だと言い張る男は、最後にはシュンの願いを聞き入れてくれた。 自分の弟に野蛮人を見切らせるには野蛮人に会わせてしまうのが最上の方法だと、彼は考えたのかもしれなかった。 牢を脱出する計画は実行に移されなかった。 その日、アウグストゥスの記念の祝祭が執り行なわれるはずだった夜。 予定の祭りは行なわれず、そのせいで不満を持ったのか、ローマ兵の陣幕が張られている周辺は夜通し妙に騒がしかった。 |