これから艱難辛苦を重ねることになるだろうブリトン族の王のために、ローマ軍の司令官は置き土産を一つ残していってくれていた。 ヒョウガがその置き土産に気付いたのは、彼が彼の乗っている馬を放棄しようとした時だった。 ローマ軍の陣営の方に馬の向きを変えようとして、ヒョウガは、ローマ軍の司令官の立ち去ったあとに、彼の希望の源が立っていることに気付いた。 「シュン……」 ヒョウガが呆然として呟いた名の持ち主が、ヒョウガの乗っている馬の側に歩み寄り、その鼻面を手で撫でる。 そして、まともにヒョウガと目を合わせることを恐れているかのように、シュンはヒョウガの乗っている馬に向かって、彼の事情を説明しだした。 「ローマはこれ以上の侵略をやめることにしたから、もう野蛮人と戦うつもりはないけど、ヒョウガが敵にならないように見張ってろって、兄さんが」 「シュン……兄と呼ぶのか。あの男を」 本当は、もっと違う言葉をシュンに告げたかった。 もちろん、その言葉でシュンを責める意図もなかった。 ヒョウガはただ純粋に驚いたのである。 以前は――ブリトン族の自由と独立を妨げるものとして、ローマ人を憎むシュンの心は、ブリトン族の王以上だったのだから。 シュンは、その憎むべきローマ人を、思いがけないほど優しい言葉で語り始めた。 「ヒョウガが死んだら僕も死ぬって、兄さんはわかってたみたいなの。僕が死んでしまったら、両親の願いも、兄さんのこれまでの戦いも無駄になるから……って」 それで、十数年間捜し続けた末にやっと巡り会うことのできた弟を、あの男は手放したというのだろうか。 そうなのだとしたら、確かにあの男はシュンの兄だったのだ――と、ヒョウガは思った。 シュンに生きていてほしい、シュンに幸福になってほしいと望む、シュンを愛する一人の人間。 その心に、ローマ人とブリトン族で違いのあろうはずもない。 二つの民は等しく“人間”――同じ心を持った、同じ人間なのだから。 「兄弟は何があっても永遠に兄弟だから、いつ別れることになるかもしれない野蛮人の方を今は支えてやれって。ヒョウガに冷たくされたら、さっさと殺してローマに帰ってこいとも言ってたけど」 笑いながら、シュンが兄の言葉をヒョウガに伝える。 死より深い絶望を味わったあとで、ヒョウガの目に シュンの笑顔は眩しすぎた。 それでも、視線をシュンの上から逸らすことができない。 「ヒョウガ、あの……」 生きるための力と目的を取り戻した歓喜のために、ヒョウガは言葉も発せずにいたのだが、その沈黙がシュンを不安にしたらしい。 つい昨日まで――もしかしたら たった今も――敵として憎み合っていたローマ人だったのだ、シュンは。 以前は孤児であることに引け目を感じていたシュンが、今は自分がローマ人であるとことに不安を覚えているようだった。 だが、それは馬鹿な考え――杞憂というものである。 愛してしまったら、その人はただひたすらに愛しい人で、ローマ人も野蛮人もない。 シュンの不安を取り除くため、ヒョウガは馬の上からシュンにその腕を伸ばした。 瞳をぱっと輝かせたシュンの身体を抱き上げ、馬の背に乗せる。 横乗りにさせたシュンの身体を、そしてヒョウガは強く抱きしめた。 「死んでも離れずにいて、おまえの兄には、その放言を後悔させてやる」 「ヒョウガ……!」 抱きしめ、抱きしめられるだけで、胸が高鳴り、身体中の血が騒ぐ。 二人でいれば生きていることを実感でき、生きていることは素晴らしいことだと信じることができる。 二人なら、何もない場所に自由と希望に満ちた国を作ることも可能だと確信して、二人は口付けを交わした。 希望の国は、その時 既に、彼等の胸に築かれていたのかもしれない。 Fin.
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