城戸邸での打ち合わせは、氷河さんが予見していた通りになりました。
最初にグラード財団総帥である城戸沙織嬢が現われて、挨拶と寄付金のこと、万一子供たちが不始末をしでかした時の補償の件を、落ち着いた口調で てきぱきと私に説明してくださいました。

彼女は多忙な女性らしく、2、30分でそれらの用件を話し終えると、
「では、あとの細々したことは、こちらの者にご説明ください。瞬、お願いね」
そう言って、掛けていたソファから立ち上がりました。
瞬さん――それまで、城戸沙織嬢が掛けていた椅子のうしろに、まるでボディガードのように――いえ、空気のように立っていたその人が、氷河さんの言っていた『瞬さん』でした。
沙織嬢がその名を口にするまで、私は、そこに自分と沙織嬢以外の人間がいることを意識していませんでした。
それほど巧みに、瞬さんは自分の気配を消していたのです。

瞬さんに後事を託すと、沙織嬢は、まるでこれから舞踏会にでも行くのだと言わんばかりの優雅な足取りで客間を退出されました。
そうして私は、城戸邸の客間の贅沢な大理石のセンターテーブルを挟んで、瞬さんと二人きりで向き合うことになったのです。

瞬さんは、中性的というより無性的――とでもいうのでしょうか。
非常に不思議な様子をした人でした。
城戸沙織嬢――彼女も大変美しい女性でした。
明朗で聡明で、意思的な眼差しと唇を持ち、歳に似合わぬ威厳まで備えていた。
ですが、瞬さんは、彼女とは対照的に、確固とした存在感・明確な輪郭がなく、何と言いますか――妖精的――とでも言えばいいのでしょうか。
印象は優しくやわらかで、温かな綿雪のような人。
そして、確かに素晴らしく“綺麗”でした。

あの氷河さんが、ためらいもなく『俺なんかよりずっと』と言い切ったのも頷けます。
その瞳に言及した理由もわかりすぎるほどにわかりました。
奇跡のように澄んで美しい瞳。
造作そのものは、氷河さんと比べてどちらがより優れていると決めることは私にはできせんでしたが、そもそも氷河さんと瞬さんでは美しさのタイプが全く違いました。
瞬さんは、まとっている空気からして違う。――他の誰とも違う。
城戸沙織嬢に比べれば大人しそうで控えめで、地味ですらあったのですが、その美しいことは疑いようもなく、常人とは発するオーラが違っていました。

氷河さんは、瞬さんを『実年齢より幼く見える』と評していましたが、決してそんなことはありませんでした。
だからといって 年かさに見えるというのでもなく――たとえば、天使は千年の時を生きていても、その姿と心は若々しいままでしょう。
瞬さんは、そんな感じの人間だったのです。
まだ10代というのに落ち着いていて――悲しいほど、不自然なほど落ち着いていて、そして、幸福そうには見えませんでした。
祖父と言っても通りそうな年齢の、初めて会った訪問客の前で、瞬さんは終始 優しい微笑を絶やさなかったのですけれども。

「どうか?」
「あ、いや、あまりにお綺麗なので驚いてしまいました」
「え……」
聖職者にそんなことを言われることを意外と思ったのかもしれません。
瞬さんは軽く首をかしげました。
そんな様子を見ると、確かに氷河さんが言っていたように歳より幼く見えるような気もします。

そういった称賛を、瞬さんは言われ慣れているのでしょう。
瞬さんは、私の言葉を大袈裟に否定することも喜ぶこともしませんでした。
代わりに瞬さんは、微かに左右に首を振り、そして言いました。
「僕はもっと美しい人を知っています」

氷河さんのことだ! ――と、私は直感したのです。
この瞬さんに そう断言させるほど美しい人間が、この世界に そうそういるとは思えませんでしたから。
氷河さんと瞬さんは、互いに互いを自分より美しいと思っているのでしょう。
どちらの気持ちも納得できます。

「さぞかし、美しい男性なんでしょうね」
私は、探りを入れるつもりでそう尋ねてみたのです。
頷きかけた瞬さんは、ふと顔をあげ、私をじっと見詰めました。
「どうして男性と思われたんです」
それは当然の質問だったでしょう。
他の動物の世界ではともかくも、人間の世界では『美しい』は主に女性に冠せられ、また女性に喜ばれる讃辞です。

私は少々慌てて、おそらく不自然さを完全には消しきれていない作り笑いで、その場をごまかさざるを得なくなりました。
私は、瞬さんに氷河さんのことを知らせぬよう、彼に口止めをされていましたから。
「とても美しい男性を知っているので」
「どんな方です?」
これでは、探るつもりの私の方が探られているようです。
この急場を逃れるために、私は聖職者らしく神の力を借りることにしました。
「もちろん、天にまします我等が主ですよ」
「ああ」

私の返答に、瞬さんは落胆したようでした。
私は、瞬さんに事実を知らせたい衝動にかられ、けれど、かろうじて その衝動を抑えることができました。
氷河さんが悪意や害意から、自分のことを私に口止めをしたとは思えません。
軽々しく彼の意に反するようなことはできないと、私は思ったのです。
とはいえ、この美しい二人への興味は消し去り難い。
氷河さんとの約束を破ることなく、瞬さんから二人のことを聞き出すことはできないものかと、考えあぐねながら、私は瞬さんに話しかけました。

「日本では、主の降誕祭を恋人同士で過ごすことが多いと聞いていますが、瞬さんにはそういう方はいらっしゃらないのですか」
「そうらしいですね……」
まるで他人事のように、瞬さんは微笑みながら言いました。
自分のことに言及するつもりはないようです。
私は年甲斐もなく食い下がりました。

「瞬さんもお連れになったらいかがです。ロシア正教の降誕祭の聖体礼儀は、聖堂に何百本もの蝋燭をともして行なわれます。厳粛な儀式ではありますが、同時に神秘的・幻想的でもありますよ。大変ムードがあって、世の恋人たちには大変評判がいいんです」
私の好奇心は、どうやら瞬さんの心を傷付けてしまったようでした。
瞬さんはひどく寂しげな眼差しを私に向けてきました。それでも――微笑みながら。
「僕の好きな人は、僕の側にいてくれない……。遠くに行ってしまったんです」

氷河さんのことを知らなかったら、私は瞬さんの恋人は亡くなってしまったのだと早合点していたことでしょう。
ですが、私は氷河さんを知っていた。
瞬さんと同じように寂しげに、けれど情熱のたぎる瞳で 瞬さんを語る氷河さんという人間の存在を、私は知っていたのです。
瞬さんが好きな人というのは氷河さんのことで、氷河さんももちろん瞬さんを恋していて、にも関わらず、二人は何らかの事情があって共にいられないのだと、私は察したのです。

私は、意識せず気遣わしげな目を瞬さんに向けていたのかもしれません。
だからこそ――そして、私が神に仕える人間だからこそ、瞬さんは私に言ったのでしょう。
「司祭様は、人を愛することは罪を生むことだとお思いにはなりませんか? 妬み、独占欲、憎しみ、肉欲――人が人を愛することがなければ、人は綺麗なまま、罪を犯すことなく、不幸になることもない」
それは大変危険な考えです。
私は、即座に瞬さんの言を否定しました。

「ですが、幸福にもなれませんよ」
「沙織さんと同じことをおっしゃる」
「沙織さん――あの方がそんなことを?」
彼女がそんなことを言うというのは意外でした。
先程 私に歯切れのよい説明をしてくださったあの女性は、その行動原則を主に経済的価値に置いているように見受けられたのです。

ですが、そうではなかったようです。
私の驚きを微笑で受けとめて、瞬さんは私に頷き返しました。
「人間が愛し合うことを知らない存在であるなら、そんなものは滅んでもいい、と断言する人です」
「それは……過激な」
「ええ。でも、それは、人々に 互いを思い遣り愛し合っていてほしいという熱烈な願いを抱いているからこその言葉なのだと、僕は思うんです」
「それにしても――」

それは神の考えるべきこと、神ならぬ身の人間が そんなふうに神の視点に立った意見を持つことは危ういことなのではないかと、私は思いました。
生まれつき人の上に立つように育てられた人間を、私は幾人も知っていました。
彼等は皆、それぞれに思いあがった考えを持っていた。
ですが、彼女のそれはそういう人たちの考えとは次元が違っています。
そもそも それは、人間が断じていいことではありません。
人類が滅んでもいい――などと。

ですが、なぜでしょう。
私は、どういうわけか、沙織嬢の発言を不快に思うことはなかったのです。
瞬さんの言う通り、沙織嬢のその言葉は、人間というものへの熱烈な期待と信頼と愛情によって生じた言葉だと感じられたからだったのかもしれません。

瞬さんはそれ以上は ご自分のこと、沙織嬢のこと、そしてもちろん氷河さんのことに言及することはありませんでした。
聖体礼儀の式次第と、その際に星の子学園の子供たちに守って欲しい注意事項を一通り 瞬さんに説明し終えると、私は、不思議に美しい人たちのいる その屋敷をあとにしたのです。






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