真冬――とはいえ東京の真冬です――の空の下に出ると、沙織嬢は私に握手を求め、私は彼女に応じました。
沙織嬢はキリスト者ではないようでしたが、同じ人たちの幸福を願う私の同志ではあったのです。

「本当に……司祭様がリベラルな方で助かりましたわ」
「そういえば以前にも そんなことをおっしゃっていましたが……私がリベラルとはどういう意味です?」
自分を堅物と思ったことはありませんが、私は仮にも主に仕える身です。
そして、宗教とは、神への従順と神の定めた規律を守る作業。
当然、私は自由主義者リベラリストではありません。
沙織嬢の評価は、私には意外――というより、不本意なものでした。

「だって、氷河と瞬の――」
微笑みながら そう言いかけた沙織嬢が、はっと何事かに気付いたように言葉を途切らせます。
“それ”を私に告げるべきか否かを しばし逡巡していたようでしたが、結局彼女はその事実を私に知らせてくれました。
非常に申し訳なさそうな口調と表情で。

「司祭様。誤解なさるのは無理もありませんけど……瞬はあれでも男の子ですのよ」
「は……?」
私は、彼女の言った言葉の意味が咄嗟に理解できなかったのです。
彼女は今、何と言いました?
あの可憐な白い野の花のような瞬さんが、男の子――男子?
沙織嬢に信じ難い事実を知らされた私は――私の頭は、着飾ることを知らない純白の野の花より真っ白になり、同時に声を失ってしまいました。

その様子は、もしかしなくても相当間の抜けたものだったのでしょう。
それまで済まなそうな顔をしていた沙織嬢は、突然けらけらと声をあげて笑いだし、からかうように私に言ったのです。
「司祭様、大変な罪を犯してしまいましたわね」
――と。

沙織嬢は楽しそうに笑って言いますが、これは笑い事ではありません。
ロシア正教において、同性愛は、もちろん歴とした罪――大罪です。
プロテスタントやイギリス国教会と違って、修道誓願をした司祭の妻帯も認められていないロシア正教、同性愛などもってのほかです。
だとしたら――瞬さんが本当に男子なのだとしたら――。
「私は何ということを……」

私は、私の頬から血の気が引いていく音を聞いたような気がしました。
当然でしょう。
私は、主が禁じた罪業を成就させるために、この手を罪で汚してしまったことになるのです。
頬を蒼白にした私に気付いているはずなのに、沙織嬢は相変わらず微笑んでいました。
微笑みながら、まるで私の人間性を探るような鋭い眼差しをして、沙織嬢は私に言った――。
「でも、自分が罪を犯すことで二人の人間が幸福になれたのなら、それは素晴らしいことだとお思いになりません? あの二人は美しくありませんでしたか?」

主よ、お許しください。
私は沙織嬢の言葉に反論できませんでした。
神に祈り続け、60余年の時を神と共に生きてきたというのに、その教えに背く愛の成就に手を貸してしまったというのに、あの二人の幸福が、私は嬉しくてならなかった。

沙織嬢は、神は人間が幸福になるための道具にすぎないと言っていました。
神を道具と思うことは、私には到底できることではありませんでしたが、私は、神は人々の幸福を願っているのだと、人々が救われることを望んでいるのだと、そう思いたかったのです。
神は、あの二人を許してくれる存在だと思いたかった――。
もちろん、私が犯した罪は罪。
その罪を神に咎められることから逃れようとは思いませんでしたが、私は、あの二人の上にだけは神の許しを降らせてほしかったのです。

その時でした。
沙織嬢が空を見上げて言ったのは。
「まあ、雪」
「まさか。今日はずっと晴れて暖かいと――」
日本に来て30年以上の時が経ちますが、私は雪の降る降誕祭など、2、3度しか経験したことがありません。

「きっと天にいる司祭様の神が、司祭様の優しいお心に打たれて、祝福のために降らせてくださったんですわ。雪が降っているのは、この聖堂の周囲だけのようですもの」
言われて周囲を見渡しますと、確かに沙織嬢の言う通りでした。
故国の冬を思い起こさせるような純白の雪は、私と私の教会の周囲にだけ きらめきながら降っていたのです。

聖堂の扉の前に、氷河と瞬さんが寄り添って立っていました。
沙織嬢が、氷河さんに何やら意味ありげな微笑を投げ、氷河さんは彼女に頷いたようでした。
氷河さんは、何というか――この僅か数分の時間で、ひどく大人びてしまったように見えました。
氷河さんと生活を共にしていた2年間、私は時々彼を少年のようだと思うことがあったのですが、それは少年らしいまっすぐな思い込みと、彼自身の持つ弱さが、彼をそのようなものにしていたからだったのでしょう。
愛する人を幸福にするために、自らの罪と良心の呵責に耐える決意をすることで、人は“大人”というものになるのかもしれません。

瞬さんは、そんな氷河さんから目を離そうとせず、彼を見詰めたまま。
まるで、一瞬でも目を離したら、その間に氷河さんがどこかに行ってしまうのではないかと懸念しているようでした。
いいえ、瞬さんはおそらく、長い間待ち続け、ついに手に入れた自らの幸福から目を逸らすことができずにいただけだったのでしょう。

幸福そうな二人は美しかった。
幸福な二人は、寂しげだった時よりも はるかに輝いていました。
二人を見て、沙織嬢の言う通りなのかもしれないと、私は思ったのです。
主は私の為したことをお咎めになってはいない。
美しい二人が、再び寄り添ったことを主も喜んでいらっしゃる。
そうとでも考えなければ、この奇跡は説明し難いものでした。
神でもなければ、私たちのいる場所にだけ雪を降らせることなどできるはずがないではありませんか。
主は、私の罪をお許しくださっている――それどころか、私が犯した罪を祝福してくださっているのです。

氷河さんと瞬さんは、自分たちが幸福になることで、この私をも幸福な人間にしてくれました。
主のお生まれになったこの日。
主の館である教会で多くの者たちが幸福になったことを、主は喜んでおいでなのに違いありません。
そう信じて、私は、天なる神に心からの感謝と祈りを捧げたのです。






Happy Christmas!






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