「人間なんて下劣な生き物は、神にでも悪魔にでも滅ぼされてしまえばいいんだっ!」
氷河は一応、それまで人目を気にしていたのかもしれない。
気付きたくない事実に気付いてしまった自分と、気付きたくない事実を顕在化してくれた世界を呪う言葉を氷河が吐き出したのは、二人がグラード財団統合本部ビルに書類を届けるという仕事を無事に終え、城戸邸に戻ってからのことだった。
自分のねぐらに辿り着いた途端に、氷河の堪忍袋の緒は切れてしまったらしい。

「何なんだよ、いったい」
たまたまその場に居合わせた星矢は、エントランスに入ってくるなりホールに大声を響かせた氷河に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔を向けることになった。
氷河と一緒に帰宅した瞬が、そんな星矢に、氷河の態度を弁解するように事情説明を始める。
「あの……グラードの本部ビルに行く途中の電車の中で、僕、痴漢に合っちゃったんだ。それで、あの……でも、氷河が怒ってるのは多分、僕が痴漢に毅然とした態度をとらなかったから――だと思う」

「痴漢ー !? 」
瞬の事情説明を聞いた星矢は、それでなくても丸くなっていた目を更に大きく丸くした。
それから、脱力したように深い溜め息を一つ つく。
「あのさ、痴漢ってのはさ、何されても騒ぎたてないような、気の弱そうな子を狙ってくるもんだって、こないだテレビで言ってたぞ。おまえ、仮にもアテナの聖闘士が痴漢行為をやらかすような下種な奴に舐められてどうすんだよ!」

星矢の叱責に、瞬が力なく項垂れる。
瞬が犯罪者に対して毅然とした態度をとることができなかったのは、自分の上に降りかかってきた災難は意図された痴漢行為ではなく、自分の錯誤・誤解なのだと思いたいが故のものだったのだが、氷河の怒りと星矢の叱咤には、確かに一理があった。

「それで氷河も怒ってるのかも……」
痴漢に目をつけられても仕方がないと思えるほど気弱な様子で、瞬がしょんぼりと項垂れる。
そのせいで、星矢もそれ以上瞬にきついことは言えなくなってしまったのだった。
否、星矢が瞬を責めるのをやめたのは、気落ちしている瞬の様子を見ることになったからではなく、むしろ氷河の態度を訝ることになったから――だったかもしれない。

瞬が痴漢に強い態度で出られなかったとしても、それは瞬のせいではないし、多少は瞬に非があったとしても、いちばん悪いのは痴漢行為を働いた不届き千万な助平男である。
氷河が瞬のせいで不機嫌になっているというのなら、どう考えても氷河は立腹する相手を間違えている。
だが、それは、瞬のすることならどんなことでも許してしまいたい男が、間違えるようなことだろうか。
星矢は、氷河の不機嫌には何か別の理由があるような気がしてならなかった。






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