カミュから一通りの説明を受けたヒョウガは、噂の新妻の姿を見ておこうと考え、再度視線を欧州一の資産家の上へと巡らせた。
黒衣の男が、サロンの主であるベルジョイオーソ夫人にいかにも なおざりな挨拶を返し、集まってきた追従者たちをやり過ごして、カミュの方に歩み寄ってくる。
革命前からの大貴族と、出自も定かではない、だが現在はフランスで最も力(金)のある男。
二人はどうやら顔見知りのようだった。

「珍しい。君は新年もクリスマスも関係なく、屋敷で本を読みふけっているものと思っていた」
「私の母方の親戚がペテルスブルクからパリに遊学に来ていて――」
ヒョウガを目だけで示して――ろくな紹介もせずに――カミュが冥府の王に彼がここにいる理由を告げる。
「彼にナポレオンがいなくなったパリを見せてやる羽目になったのでね。貴殿に会えるとわかっていたら、私も外出にはもう少し慎重になっていただろう」

二人の大物は、見るからに仲が悪そうだった。
少なくともカミュは、冥府の王の名を冠する男を嫌っているように見えた。
もっともカミュは自分以外の大抵の人間を軽蔑しているので、それは特に驚くようなことではないのだが。
二人がにこやかな会話を交わしてくれなかったおかげで、ハーデスに愛想笑いを作る必要を感じずに済んだヒョウガは、彼を思う存分観察することができた。

間近に見ると、冥府の王の名を戴く男は、さほど険しい眼差しの持ち主ではなく、むしろ優美で穏やかな物腰の男だった。
だが、退屈そうなカミュの様子が人の目に威厳に映るように、彼の優美は隙のない峻厳に映る。
底のない闇のような色をした瞳は、心の奥底にあるものを容易に他人に窺わせない。
ヒョウガは、彼に冥府の王の名を贈った人物の気持ちがわかるような気がした。
顔の造作自体は驚くほど端正で、整いすぎるほどに整った その面立ちが、彼の年齢を察しにくいものにしている。
おそらく30絡みなのだろうが――それでも欧州一の大銀行家としては若すぎる歳である――もっと若いようにも見えた。

「君と君の奥方の機嫌取りをしたい紳士淑女があちらの方にいくらでもいるだろう。私などと言葉を交わしているより、彼等の方が よほど耳に快い世辞を雨あられと浴びせかけてくれると思うが」
「君なら、彼等の餌食になりにいくかね。多少そりが合わなくても、私は、私の金に媚びへつらわない人物との会話を楽しみたい」
「随分と買いかぶられたものだ。私は実は大変な俗物だよ。君の奥方を拝見したいが」
カミュにそう言われると、冥府の王は、微かに嬉しそうに目を細めた。
その反応が、カミュには意外だったらしい。
奇妙に顔を歪めて、彼は不思議なものを見るような視線を冥府の王に向けた。

「シュン、こちらに」
「はい」
ハーデスが奥方の名を呼ぶ――呼んだらしい。
黒衣の男の後ろから白い小さな何かが現れ、ふわりと彼の横に並び立った。
漆黒のハーデスとは対照的に、それは、浅い春の野に咲く控えめな花のような純白でできていた。

ハーデスの妻は他に係累のない孤児――と、ヒョウガは事前に聞かされていた。
当然、持参金もないだろう。
となると、冥府の王の妻は、財や家柄の代わりになるもの――常ならぬ美貌と色香――を持った女性に違いないと、ヒョウガは思っていた。
だが、ハーデスに名を呼ばれてヒョウガの前にやってきた冥府の女王は、そんなものではなかった。
確かに美しいことは美しい。
しかし、その美しさは誇り高い貴婦人のそれではなく、高級娼婦のそれでもない。
冥府の王の新妻は、ぱっと見たところでは、社交界どころか、まだ人の世の醜悪も知らぬげに細く頼りない少年だった。
実際に男装をしていた。

「シュン、こちら、ドゥ・カミュ公爵とそのご親戚。ご親戚はロシアの方だそうだ。公爵は、このパリで唯一フランス貴族の誇りと気概を持ったお方だ。このサロンで知遇を得る価値のある人物というと、彼くらいのものだろう」
「はじめまして。シュンです」
無邪気に名を名乗ってくる澄んだ目の子供に、パリで唯一フランス貴族の誇りと気概を持った男は――彼は、あっけにとられていた。

「君に見知りおいてもらえるなら、私の妻にとってこれ以上の光栄はない。――私の妻に声をかけてはくれないのか。私の妻は、君の審美眼には適わなかったかな」
「いや、もちろん美しいとは思う。……が、何というか、色々と想定外で」
ハーデスの言葉に、カミュがカミュらしくなく困惑した様を表情に出す。
ハーデスはそんなカミュに薄い微笑を投げた。

「娼婦あがりの肉感的な美女でも期待していたのかね」
「私をそのへんの下品な噂好きと一緒にしないでほしいものだ。私は、君がハプスブルク家の姫君を妻に迎えたとしても、さして驚きはしない。しかし――」
どう考えてもカミュは、『しかし、これは子供ではないか』と言おうとしていた。
その言葉を飲み込んで、代わりに彼が口にしたのは、
「まるで男の子のようではないか」
というものだった。
どちらにしても、世辞にはなっていない。
しかし、ハーデスはカミュの正直な感想に気を悪くした様子は見せなかった。

「今流行の、あれは何と言ったか――乳房の透けて見えるシュミーズ・ドレスが、私は嫌いでね。あんな慎みのないドレスを私の妻に着せるくらいなら、男装させていた方がずっとましだ」
「ご婦人方のドレスに関しては、私も同感だ。あの下品なドレスは成り上がり者の着るものだと、私は思うね」
「君と意見が合うとは珍しい」
ハーデスのその言葉は、明白に皮肉だった。
そして彼の態度には、その皮肉を言えることを楽しんでいるようなところがあった。

忌憚なく皮肉を言い合っている、パリで唯一 フランス貴族の誇りと気概を持った男と、欧州最大の富を持った男。
二人は、いっそ見事と言いたくなるほどに対照的だったが、ハーデスとその妻の対比はそれ以上に鮮明である。
黒衣の男と、白く細く幼い少年――少女。
まるで、悪魔が金で天使を買ったようだと、このサロンにいる誰もが思っているに違いなかった。
世辞や追従ついしょうを言っても決して損にはならず、実際に美しいハーデスの妻に、フロアにいる者たちは誰ひとり近寄ろうとせず遠巻きに眺めているだけである。
安易な世辞や追従は天使にはふさわしいものではなく、むしろ彼(彼女)を汚すものだと、彼等は思って――感じて――いるかのようだった。

「あくどいやり方で欧州中に巨大な銀行網を築きあげた男が、最後に、天使のように清純な妻を迎えて、これまでの悪事を清算し、神の許しを乞おうとでも考えたのか」
彼等の気持ちを代弁するつもりはなかったのだろうが、カミュが告げた言葉は、結果としてそういうものになってしまっていた。
が、ハーデスは相変わらず にこやかである。
カミュの嫌味は、間接的に彼の妻の美しさを認めたものになっていたから――だったかもしれない。

「シュンなら私の罪を浄化してくれるだろう。私が罪を犯していたとしての話だが」
「君の商売敵が次々に亡くなっているようだが」
「激動の時代を乗り切るために力を使い果たしたのだろう。彼等が守り抜いた富が私の懐に転がり込んできたとしても、それは私の罪では――」
ハーデスが言葉を途切らせたのは、彼の“天使のような”新妻が、まるで罪を犯した普通の人間のように顔を伏せていることに気付いたからだった。






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