ジャルパンティエ夫人のサロンで、ヒョウガは再びシュンに会うことができた。 が、ついに言葉を交わすことはできなかったのである。 シュンの夫を名乗る人物に邪魔をされたわけではない。 ハーデスは、フランスではただの異邦人にすぎないヒョウガに、むしろ親しげに あれこれと話しかけてきてくれた。 しかし、ヒョウガがシュンに視線を向けると、シュンはその視線から逃げるようにハーデスの陰に隠れてしまうのだ。 なにしろハーデスとその新妻は――ヒョウガ当人は気付いていなかったが彼自身も――現在のパリ社交界の注目の的であり、彼等には いつも少なくない人の目が向けられていた。 カミュの立場を考えると、人目のあるところで軽率な真似もできない。 ハーデスの陰からシュンを引っ張り出し、衆目の中でシュンを問い詰めるようなことはヒョウガにはできなかった。 だから――翌日からヒョウガは、カミュの許に届く招待状を片端から奪い取り、2日と置かずに いずこかのサロンに顔を出すことを始めたのである。 ハーデスと彼の妻に会えることもあれば、会えないこともあったが、会えたにしてもヒョウガはシュンに避けられ続け――それが7、8回も続いた頃、あるサロンでついにハーデスがヒョウガの“恋”に言及してきた。 「若くて血統がよくて美貌の青年が恋い慕ってくれているのだから、少しは愛想のいいところを見せてやってはどうかと言ってみたのだが、どうもシュンは君を避けたいようでね」 「……」 恋する者にとって、恋慕う人の夫に情けをかけられること以上に屈辱的なことがあるだろうか。 ハーデスの余裕に満ちた態度は、ヒョウガを更にみじめにした。 それでも、どういうわけかヒョウガは、心底からシュンの夫を嫌うことができなかった。 もちろん、誰よりも彼に対して、ヒョウガは妬ましさを覚えていたのではあるが。 「シュンの名と姿は皆に覚えてもらえたと思うので、私はまた元の社交嫌いに戻るつもりでいる。サロンやパーティにも顔を出さなくなるので、君もそろそろシュンのことは諦めてくれないか」 ハーデスも、その態度や言葉に驕りの色は滲ませていなかった。 彼は、彼の妻に執着する男を蔑んでいるのではなく、むしろ心から同情しているように見えた。 その事実こそが、今のヒョウガには最大の侮辱であり、最大の屈辱ではあったのだけれども。 「シュンは……本当にあなたの妻ですか」 幸い、サロンの控え室には、ヒョウガとハーデスの他には誰もいなかった。 ヒョウガは、かねてから確かめたいと思っていた疑念を彼にぶつけてみたのである。 「サン・シュルピス教会の結婚認証がある。まあ、このパリにいる誰もが、冥府の王の私が清純な妻を金で買ったのだと思っているようだが」 「そうではないのか!」 つい声が荒くなる。 しかし、ヒョウガの挑むような言葉を、ハーデスは軽く受け流した。 「大抵の場合、人の心は金で買うことができるのだが、まれに買えない人間もいる。私のようにうんざりするほど財産がある男は、そういう人間にこそ価値を見い出すようにできているんだ。シュンがそうだ。君の親戚の公爵殿もそういう人間の一人だな。あのプライドと頑固は、いくら金を積んでも変わるまい」 「話を逸らすな!」 シュンの夫の余裕が、癪に障って仕方がない。 ヒョウガは苛立つ自分を抑えることができなかった。 シュンが本当に この黒衣の男の妻だというのなら、シュンは毎晩この男に抱かれていることになる。 それはまるで、死神が天使を蹂躙しているようなものではないか。 ハーデスを知り、シュンと再会したその日から、考えたくもない想像に昼夜を問わずに苦しめられ続け、ヒョウガは気が狂ってしまいそうになっていた。 シュンがハーデスの妻になっていると知らされるまで、ヒョウガは、シュンに対する自分の感情が恋だとは思っていなかった。 シュンは恋の相手にはなりえない人間だと思っていた。 だが現実に、シュンを妻として遇している男が存在するのだ。 その男は当然、夫としての権利をシュンの心身に対して行使しているに違いない。 ボルドーの明るい光の中で天使のように輝いていたシュンが、この男の寝室で、夜毎 あさましい欲望を あの細い身体に埋め込まれ、汚れていく我が身を嘆き悲しんでいるのだ。 闇に犯され続けているシュンが、いつまで あの頃の輝きを失わずにいられるのか、ヒョウガにはわからなかった。 「シュンが私の財産を愛して私の妻になったのだとしても、私自身を愛して私の妻になったのだとしても、確実なことは、シュンは現に私の妻であり、君のものにはなりえないということだ。あいにく、私は寝取られ男になるつもりはない」 ヒョウガの攻撃的な態度に呆れたのか、さすがにハーデスの口調が険しいものになる。 しかしヒョウガはひるまなかった。 恋をしている男には、恋人の涙や嘆きの他に怖れるべきものはない。 ヒョウガをひるませる ただ一つのものを持った人が その場に姿を現わしたのは、その時だった。 |