ついに やっと二人きりで言葉を交わす機会を与えられたというのに、ヒョウガの心は少しも弾まなかった。 シュンが真実 ハーデスの貞淑な妻であったにしても、夫の手前 不義を拒絶する妻を演じてみせただけだったにしても、そのどちらのシュンも ヒョウガの望むシュンではなかったのだ。 「俺はおまえを見たことがある。パリではなく、ボルドーの教会で。憶えてないか」 シュンは知らぬ顔を通すつもりはないようだった。 パリの上流階級の人間としては常軌を逸したヒョウガの振舞いをして、すべてを隠し通すことは無理と悟ったのかもしれなかった。 「憶えてます。あなたみたいに綺麗な人を、一度見たら忘れるわけがない」 シュンは二人の出会いを認めたが、その態度はヒョウガの攻撃に身構えているように硬く、拒絶するような感触のものだった。 ヒョウガは絶望的な気分で、だが一縷の希望にすがり、シュンに訴えたのである。 「俺も忘れられなかった。髪しか納められていない俺の母の墓に、おまえは花を飾ってくれた。なぜ見ず知らずの人間の墓にそんなことをしてくれるのか気になって、俺は神父に聞いたんだ。彼は、おまえがブルノワ侯爵夫人の不義の子で、母というものを知らない子なのだと言っていた」 『だから、あの子は、母君のために何かができるあなたが羨ましいのかもしれません』と、彼は言っていたのだ。 シュンが軽く首を振る。 「それが事実だったとしても――誰がそんなこことを信じるというの。僕は貴族などではありません。ただの捨て子で、あの教会で育てられた。僕を預かってくれた神父様が亡くなって、新しく赴任してきた神父様は、もう僕の世話は続けられないとおっしゃった。住む場所のなくなった僕は、食べるものにも事欠くようになり、パリに来て、ハーデスに拾われた。それだけです。あなたはなぜそんなことを言うの。20年も前なら、僕の中に貴族の血が入っていることは脅迫の種になったかもしれないけど、今はそういう時代じゃない。僕の出生がどんなものであったとしても、誰も気にしない。脅迫の種どころか噂話の種にもならない」 脅迫など、もちろんヒョウガはするつもりはなかった。 そんな手段でシュンを手に入れて――あるいはハーデスの富の一部を手に入れて――いったいどんな満足が得られるというのだ。 「おまえを脅迫するつもりはない。俺はあの時、おまえに恋をしたから、おまえに俺の心を知ってもらいたいだけだ。あの神父は――おまえはブルノワ侯爵夫人の不義から生まれた“男子”だと言っていた」 だから これは恋ではないと、ヒョウガはずっと信じていたのだ。 ハーデスの妻として、シュンが彼の前に現われるまでは。 恋の自覚があったなら、ヒョウガとて、シュンを他の誰かに奪われることのないように もう少し迅速な行動をとっていた。 シュンが、ヒョウガの言葉に眉根を寄せる。 それから、シュンは、実に常識的なことをヒョウガに尋ねてきた。 「あなた、変です。僕が男なら、どうしてハーデスは僕を妻にできるの。どうして あなたは僕に恋したなんて言えるの。そういう趣味の持ち主なんですか」 「最初の質問の答えは『わからない』。2番目の質問の答えも『わからない』。3番目の質問の答えは『違う』だ。違う――と思う。俺はただ、不幸な女性の墓に花を手向けてくれたおまえの優しくて悲しい気持ちに惹かれたんだ。そして、俺たちは最初から出会う運命だったのだと、勝手に一人で信じ込んだ」 ヒョウガの声には、多分に自嘲の響きが混じっていた。 すべてが一人よがりの思い込みだったのだとしたら――それでも この恋を思い切ることのできない自分の愚かさを、ヒョウガは嘲ることしかできなかったのだ。 「俺はおまえにもう一度会いたくてボルドーに行ったが、おまえはもう あの教会にはいなかった。パリに出たと聞いて、すぐ追いかけた。あの新年のパーティに行ったのも、ブルノワ侯爵が来るかもしれないと聞いたからだ。もしかしたら何かわかるかもしれないと思った。ブルノワ侯爵夫人は、先月亡くなったそうだな」 「……ええ」 おそらくブルノワ侯爵夫人は生前密かに、あの教会に寄進の名目でシュンの養育費を入れていたのだ。 それが途絶え、事情を知る神父も亡くなって、新任の神父はシュンを教会で養う必然性を感じずにシュンを教会から追い出したのだろう――と、ヒョウガは察していた。 それで一応の辻褄は合う。 「もう、ボルドーには誰もいない。僕を引き取ってくれた神父様も、僕の実母だったのかもしれない侯爵夫人も。だから、パリに出た」 そこまでは、ヒョウガにも察することができ、また理解することもできたのである。 だが、パリで再会したシュンは、何もかもがボルドーでのシュンとは違っていた。 「わからない。男のおまえがなぜハーデスの妻になれるんだ。ハーデスこそ、そういう趣味の持ち主なのか」 「……」 シュンは何も答えない。 ヒョウガも、そんなことはどうでもよかった。――ハーデスの趣味などどうでもいいことだったのだ。 ヒョウガが言いたいのは、シュンに知ってもらいたいのは、そんなことではなく――。 「そんなことはどうでもいい。俺だって、おまえに恋をした。その趣味のない者だって、おまえには恋するだろう。毎晩おまえがあの男に抱かれているのかと思うと、俺は気が狂いそうになる。2年前ボルドーの教会で会った時から、俺はおまえを――」 シュンはその言葉を、ヒョウガにとって最も重要な言葉を、左右に首を振って遮った。 「……お金で買えないものは滅多にないというのは事実で、ハーデスはサン・シュルピス教会の結婚認証をお金で買ったんです。僕はハーデスのただ一人の家族になって――彼は、彼の財産を僕に譲りたいらしい」 「奴を愛しているのか!」 「彼は不幸で寂しい人なんです」 ハーデスがどんな男でも、ヒョウガはそんなことには興味がなかった。 ハーデスが不幸で寂しい男だというシュンの言が事実だとしても、彼は今、シュンをその手に抱いている。 彼が不幸で哀れな男なら、そんな男ですら手にしているものを得られない自分はいったい何なのか。 それこそ、世界で最も不幸で、世界で最も哀れな男ではないか。 「俺は――この先、俺がおまえに愛される可能性はないのか」 「愛してどうなるの。夫以外の恋人と恋愛遊戯を楽しむパリ社交界の粋な振舞いなんて、僕にはできない。ハーデスを裏切ることは、僕には絶対にできない」 シュンの答えは最初から最後まで、ハーデスの貞淑な妻のそれだった。 |