花のある星






「無駄だ。すべてが無駄。おまえたちアテナの聖闘士がしていることは」
彼は、瞬にそう言った。
低く重く不吉な声。
どこから響いてくるのかはわからない。
彼は、瞬の前に姿を現さないのが常だった。
彼があまりに実在感を示さないので、瞬は時折、彼の声は自分の内から生まれてくるものなのではないかと思うことさえあったのだ。

その声の主はいつも瞬を見張っていて、瞬の周囲から仲間の姿が消え、その心が弱くなっている時を見計らって現れる。
そして彼(?)は、人の心を惑わす悪魔のように囁き続けるのだ。
『すべてを諦めてしまえば、おまえはもっと幸福になれるぞ』と。

「おまえが命を懸けて戦い 勝利しても、すぐに新たな敵が現われる。これまでいつもそうだったろう? 最初は愚かな同志討ち。そして、アスガルド、ポセイドン、ハーデス。それで終わりだと、おまえは思ったな? だが、そうではなかった」
彼の言うことは事実だったので、瞬は反論できない。

聖闘士の証である聖衣を手に入れた時から、戦いは常に、瞬の唯一の真の友のように瞬の傍らにあった。
聖闘士になるためにも、瞬は戦わなければならなかったし、それ以前に、瞬は、物心がついた時から――人としての意思を持った時から――生きるために ありとあらゆることと戦わなければならなかった。
孤独、偏見、冷淡、貧困。あの頃は、世界そのものが瞬の敵であり、生きていること自体が避けられない戦いだった。
それでも瞬が戦いに打ちのめされてしまうことがなかったのは、瞬の傍らにいつも兄と仲間たちがいたからである。

「いつか、おまえの戦いは終わると思うか?」
「……」
瞬は、その残酷な問いにも答えられなかった。
決して認めたくない事実――瞬には、その問いの答えがわかっていた。
おそらく一生――永遠に、それは終わらない。
聖闘士としての戦い、人としての戦い。
まるで戦い争うことが人の命の維持には必要なのだというかのように――おそらく人のDNAには、“戦い”という要素が組み込まれているのだ。

瞬が答えを返さないので、彼は確信を得たらしい。
否、彼は最初から自信に満ちていた。
「断言してもいいが、おまえの戦いはおまえが死ぬまで終わらない。もし、おまえが死ぬ前に おまえの周囲に敵が存在しなくなることがあったとしたら、それはこの世界でおまえ以外のすべての生き物が死滅した時だけだ」

「そんなことはないよ!」
瞬はさすがに その発言には異議を唱えずにはいられなかったのである。
彼のその言葉が事実であったとしたら、瞬には“味方”が一人もいないことになる。
「いいや、そうだ」
彼は、瞬の反駁を、実に気軽に、だが確然とした態度で いなした。
そして、まるで理解の悪い子供に『1+1』が『2』になる仕組みを説明するような声音で、瞬の説得にとりかかった。

「よろしい。ではおまえがアテナの敵をすべて倒したと仮定しよう。醜悪な人間の粛清を目論む神々はすべて滅び去り、この世界にはアテナとアテナの聖闘士とアテナの聖闘士たちが守ってきた人間たちだけが生き残った。そういう状態になれば、おそらくおまえの次の敵は、それまでおまえたちが守ってきた人間共だ」
「馬鹿げてる。戦う術を持たない人たちが、どうすれば僕たちの敵になれるっていうの」
彼の言うことは常軌を逸している。
常識を身に備えた者が考えることではない。

「なるさ。おまえだって、まさか人間たちがすべて善意だけでできているものだとは思ってはいないだろう? 人は誰も完全に清廉潔白ではないし、完全に無欲にもなれない。生き延びた者たちには強い者と弱い者がいて、それらが支配者と被支配者、敵と味方に別れる。そのくせ、人間たちは孤立を怖れるから、強い者たちは力で、弱い者たちは妬みで繋がり、徒党を組む。共通の敵がいなければ、人は他者と味方にも同志にもなれないんだ。そして、敵と味方を得たら、人間共が始めることは ただ一つ――だろう?」
「……」

そうならないために“正義”という基準が存在するのだと反論しようとして、だが、瞬はそうすることをやめた。
“正義”などという不確かな基準を持ち出したところで、瞬の反駁はすぐに彼に論破されてしまうだろう。
瞬にはそれがわかっていた。

「人間の暴走を押さえつける力を持つ神々がいなくなれば、人間共はいよいよ傍若無人に振舞うようになるだろう。強い者は弱い者を虐げ、支配しようとする。大多数の者はその支配に屈するだろうが、ある者は抵抗を試みるだろう。結局はまた争いが起きる。おまえたちは、虐げられている者たちを助けようとするのかな? 弱者を虐げる者たちを駆逐しても、残った者たちがまた同じことを繰り返すだけだぞ。そうして、人間共の争いはどんどん低レベルになり、あさましく見苦しくなり――最後に残った最も卑怯で醜悪な者たちも、敵という貴重な存在を失えば、あとは自滅するしかない」
そうはならないと断言することは、瞬にはできなかった。
そういう卑怯な振舞いに及びそうな人間たちを、瞬は数多く知っていたので。

「結局、この地上に真の平和が訪れるのは、人間がすべて地上から消え去った時だけだ。そうなって初めて、おまえは、それまでの自分たちの戦いが何の意味もないものだったことを知るんだ。その時まで おまえが生き残り、戦い続けていられたとしての話だが」
この世界と人間の終焉の時になど立ち合いたくない。
それが瞬の本音だった。
アテナの聖闘士たちの戦いの結末が そんな世界の実現だったとしたら、自分たちが生まれ生き戦い続けてきたことすべてが無意味――どころか、人間という存在にとって害悪であったことになる。

「おまえのように善良で心弱い人間は、早く死ぬ方が利口なんだ。そうすれば、おまえは誰も傷付けずに済む。これ以上 苦しまずに済む」
瞬を誘う者の声は、むしろ瞬を気遣うように優しげだった。
瞬が彼の誘いを退けることができたのは、皮肉なことに、彼が言葉を重ねて瞬に告げた、人間の醜悪さのおかげだった。
『他人を貶めるようなことを言う人間の優しさなど信じるべきではない』ということを、瞬は自分自身で過去に経験し学習していたのだ。

「どこかに行って! 消えて! 聞きたくない!」
彼は、人間の醜さを的確に指摘して、瞬を誘ってくる。
理屈や経験では対抗できない。
感情と、自分の心や価値観を守りたいという本能によってしか、瞬は彼を追い払うことができなかった。

「おまえが守っている人間たちは、心というものを持っているから、それも仕方がないんだ。人間たちは我が身が可愛い。敵を作ることで味方を作り、そうすることでやっと安心して生きていける弱い生き物だ。奴等は必要とあらば、おまえたちアテナの聖闘士を人類の敵と見なすこともするだろう」
「消えてっ!」
瞬が話を聞ける状態でなくなっていることに気がついたらしい。
瞬に悲鳴を投げつけられると、彼は自らを沈黙の中に沈めていった。
そうして 彼の声と気配が消えた時、瞬は自分が真夜中の自室のベッドの上で 一人ぼんやりと闇を見詰めていることに気付いたのである。


あれはいったい誰なのか――何なのか。
ハーデスの心の残滓ざんしか未練、あるいは別の神なのか。
瞬にはわからなかった。
もうずっと長いこと、ハーデスとの戦いに身を投じる以前から、彼は自分の側にいたような気もするし、今夜初めて出会ったものであるような気もする。

ただ彼と対峙することは、瞬をひどく消耗させた。
彼は、瞬がこれまで無理に目を背けていた人間の醜悪な部分を、瞬の前に突きつけて直視させようとする。
そして、親切ごかしに囁くのだ。
おまえの戦い、おまえの生は無意味。そもそもおまえの夢は間違っている――と。






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