「さて、今夜は、おまえたちの守っている人間共の貪欲さについて語り合ってみるか? 自分が生き延びるために、他の命を食らい、あさましく太っていく者たちの醜悪さでも――」 翌日も、彼は瞬の許にやってきた。 彼の言葉になど耳を貸さなければいいのだと思う。 絶望に至る道だけを語る者の言葉など聞かなければいい。 そして、光の中を歩む仲間たちの姿だけを見詰めていればいいのだ。 それはわかっているのに――。 闇の中からのびてくる絶望への誘いは、断固として無視するには あまりにも魅惑的すぎた。 人は、希望をもって懸命に生きるより、絶望に抱かれて停滞している方が 楽でいられるようにできているのだ。 光にだけ目を向けて生きている星矢は賢い。 闇だけを見詰めて生きている人間もまた、ある意味では賢い。 しかし、大多数の人間は、生と闇の間で揺れながら生きている。 だから、人は生きていることを苦しいと感じるのだし、瞬はその“大多数”に属する人間だった。 星矢のように光だけを見ていたいと思うのに、それでも瞬の視界には闇が映る。 「あなたは、それが人間の罪だっていうの? だって、そうしなきゃ人は生きていけないのに」 「人間とは不便なものだ」 蔑むように、彼は言った。 では、彼は人間ではないのだろうか。 だとしたら、本当に彼の声に耳を傾けることは危険だと、瞬は思ったのである。 生きるための苦しみを知らない者の基準で人を語られては――それこそ行き着く先は人類粛清の極論になるだけだろう。 自分だけが闇にからめとられるのならまだしも、自分以外の人間まで闇に沈むべきだと思うことができるほど、瞬は傲慢な人間ではなかった。 だから、瞬は彼に反駁したのである。 「不便でも仕方がないでしょう。誰だって死にたくはないもの」 「人間共に命を食われるものたちも、そう思っているだろう」 「……!」 それはそうだろう。 人間たちも――アテナの聖闘士たちも――神に食われてしまいたくないから、人間界を支配し滅ぼそうとする神々に抵抗してきたのだ。 抵抗できる力があるだけ、人間はまだ恵まれているといえる。 恨み言を訴える機会すら与えられないまま、人間たちに食われてしまうものたちに比べれば。 「じゃあ、あなたは、人間にどうしろというの。飢えて死ねというの」 「それがいちばん平和な解決法だろう? 人間は、なぜそれができないんだ?」 「……」 事もなげに――むしろ不思議そうな声で、彼は言う。 瞬は、彼に反論しようとした。 『人間にも生きる権利はあるのだ』と。 だが、闇の声が、機先を制して瞬の言葉を遮る。 「それができないのが人間だ。おまえの守っている人間たちだ。自分だけが大切で、他のものの命は平気で踏みにじる。そういう者たちが、たとえばおまえの命を自分の命と同じだけ価値のあるものだと認めてくれると思うか?」 「僕は――」 「おまえは、この地上で最も清らかな人間だそうじゃないか。そのおまえでも、おまえを生かすために犠牲になる動植物のために死ぬことはできない。そうして、人は世界を食い潰していく。自然は悲鳴をあげ、人間の横暴に耐え切れず、最後には死んでしまうだろう。その時には人間も共倒れだ」 世界は、彼の言う通りに動いている。 世界が死にかけているのは人間の傲慢のせいであり、瞬もその事実は否定できなかった。 「でも、人は人を愛してるよ。愛せるんだ。すべての人を――というのは無理かもしれないけど、家族や友人や……」 「人が人を愛している? 母は子を、兄は弟を、友人は友人を、恋人は恋人を愛しているとでも? おまえはアテナに馬鹿げた幻影を見せられ、馬鹿げた夢を信じ込まされているんだ。敵ではない同族・同類同士でなら人は愛し合える――愛し合っているとでも、おまえは言うのか? だが、その“愛”とやらが、そもそも怪しいものだぞ」 闇の声は、人間の持つ唯一の美点をすら否定しようとしている。 彼が否定しようとしているものは、人間の唯一の希望でもある。 彼の言葉を聞いてはならない。 それはわかっていたのに、瞬は彼に尋ね返してしまっていた。 「ど……どういう意味」 闇の声が、嬉々として、瞬に瞬の求めるものを返してくる。 「たとえば、母親が我が子を愛しているのなら、その母親は我が子が生きる未来を守ろうとするはずだろう。我が子のために生きやすい環境と食うものを残しておこうと。だが、そんなことを考えている母親がどこにいる? いや、我が子どころか、人間は、未来の自分自身をすら愛してはいないんだ。人間は、今の自分の命を守ることと、今の自分の欲を満たすことしか考えていない。そんな考えや姿勢を“愛”などという言葉で呼んでいいと、おまえは思うのか?」 「……」 「そう。地球は、欲深な人間たちのために壊れ狂いかけている。そろそろ人間たちの命を維持するための力も失いかけている。おまえが戦っても、戦わなくても、人はいつかは滅びるんだ。人間たちに あらゆるものを食い散らかされた地球は新たな実りを生めなくなり、人間は自分の欲のしっぺ返しを食らう。どちらにしても――」 闇の手が見えるような気がした。 その手が瞬を誘っている。 「どちらにしても、人と人の住む世界が滅びることは既に確定した。ならば、おまえも自分が生きている今を楽しんだ方がいい。今 生きていることだけを楽しんだ方がいい。地上の正義や平和のために戦うなんて、無意味なことはやめて」 その手を払いのけることはせず、瞬は薄い笑みを洩らした。 人間の身勝手を知り尽くし、その醜悪を攻撃する舌鋒が鋭かったわりに、この闇は、彼が誘惑しようとしている者がどんな人間であるのかがわかっていない。 こんな片手落ちな誘惑者があっていいものだろうか。 「残念だけど、僕はあなたの親切な忠告に従うことはできないみたい。僕、生きてることの楽しみ方なんて知らないの。戦うことしか、教えてもらわなかったから」 瞬は、闇の声をあざけるように そう言った。 彼をあざける気持ちは、同時に自分をあざける心でもあった。 こんな哀れな人間を、闇の側への誘惑者はどんなふうに籠絡しようというのだろう。 瞬は、悪魔よりも意地悪な気持ちで、闇からの答えを待った。 彼からの答えは、思いがけないものだった。 闇の手が、 「……かわいそうに」 ゆっくりと、瞬の髪を撫でる。 そして、彼はそのまま消えていってしまった――のだ。 気がつくと、瞬は、昨夜と同じように、ただ一人、夜の中に取り残されていた。 自分の周囲にある暗闇が、意思を持たないただの闇になっていることを認め、短い安堵の息を洩らす。 少し気が抜けた瞬は、自らを励ますように、 「なんだ……。結局 あれは何もできないんだ……」 と、声に出して呟いた。 その安堵の思いが、さほどの時をおかずに、違う感情へと変化する。 悪魔にも誘惑できないほど哀れなもの――。 それがアテナの聖闘士なのかと、瞬は、泣きたい気持ちで思ったのである。 あの闇の考え方、その言葉、傲慢、身勝手を、“嫌なもの”だと思う。 その“嫌なもの”の持ち主に同情されることは、だが、なぜか不愉快ではない。 『……かわいそうに』 戦うことしか教えてもらえなかった瞬という人間は、他人からの同情というものにも滅多に触れたことがなかった。 闇の正体が何であれ、どんなものであれ、同情という感情の感触は やわらかく快い。 その快さに包まれて、その夜 瞬は、昨夜よりは はるかに落ち着いた気持ちで、眠りにつくことができた。 自分が人間であることの不幸や、アテナの聖闘士であることの悲運には、あまり意識が向かない。 それにしても このベッドは広い――瞬は、眠りの中に落ちる瞬間、そんなことを考えていた。 「瞬、おまえ、まじで顔色悪いぞ」 昨日と同じように――昨日より懸念が募ったような声と表情の星矢に尋ねられた時、瞬は本当に自分の具合いが悪いとは思っていなかった。 少なくとも、昨日よりは数段気分がいい。 そう感じているのは事実だったので、瞬は笑いながら星矢に答えたのである。 「そんなはずないよ。今日はかなり気分がいいの。憑き物が落ちたみたい」 と。 「全然そうは見えないよな?」 星矢に言われた紫龍が、仲間に同意しないわけにはいかないほど、瞬の頬は青ざめていたのだが。 |