しかし――。
瞬を苦しめる――にはどうすればいいんだろう?
瞬は、一応、俺の仲間ということになっている。
何事につけ大雑把な奴が揃った仲間内で 唯一細かなことに気がまわる瞬は、皆に重宝がられ感謝もされていた。
外見は女の子みたいに可愛いし、性質も善良だし、戦えば強いくせに 人を傷付けるのが嫌いだと言い張って滅多に本気にならず、その結果として、毎回 敵のプライドを傷付け侮辱している、どちらかといえば馬鹿の類。

もちろん、瞬を肉体的に傷付けることには意味がない。
戦いを生業とするアテナの聖闘士である瞬は肉体的苦痛には慣れている。
骨が2、3本折れたくらいでは、瞬は涙を浮かべることすらしないだろう。
瞬を苦しめ傷付けようと思ったら、俺は、当然 その心を傷付けなければならない。

しかし、善良で馬鹿な人間というのは、最も傷付けにくい種類の人間でもある。
善良な人間は、自分以外の人間も善意によって行動していると思っているから、自分に向けられる他人の悪意も善意にすり替えて、一人で平穏な心を保ち続けるんだ。
かててくわえて、馬鹿ってのは、痛みに鈍い。
どうすれば、俺の仲間でもある 愚鈍な人間を傷付けることができるのか――。
ラウンジの肘掛け椅子に、どちらかといえば だらしない格好で腰掛けて、俺はぼんやりと考えていた。

時刻は午後3時。
いつものようにポットやカップを載せたワゴンを押してきた瞬は、その場でお茶の用意を始めた。
耐熱ガラスでできたティーカップが4つ、その中に琥珀色の液体。
瞬は、何が嬉しいのか にこにこ笑いながら、そのカップの中の一つを俺の前にあるテーブルの上に置いた。
「氷河、はい、お茶。ジャムもあるよ。入れる?」
俺が、瞬を愚鈍だと思う理由は、毎日瞬がいれてくれるお茶のせいもあるのかもしれない。

ロシア人は皆、紅茶にジャムを入れて飲むのだと、瞬は思い込んでいるようだった。
『ロシアには紅茶にジャムを入れて飲む習慣がある』というのも一つの知識なのかもしれないが、まずもって、その知識は間違っている。
ロシア人がお茶にジャムを入れて飲むことは滅多にない。
皆無とは言わないが、大抵はサモワールで沸かしたお茶をヴァレーニエを舐めながら飲むんだ。
ヴァレーニエは果実を砂糖で煮たものだが、明確にジャムとは区別されている。
そして、俺は甘党ではない。
が、どうやら『氷河は紅茶にジャムを入れて飲むことはしない』という情報を収納するだけの容量が瞬の脳にはないらしい。
お茶をいれるたびに瞬は、毎日毎回 俺のお茶にジャムを入れるかどうかを聞いてくる。
瞬は根本的に頭が悪いんだ。学習能力がない。

「いらん、俺はいつもストレートだ。ついでに言うなら、紅茶よりコーヒーの方が好きだ」
「あ、ごめんなさい」
俺に毎回同じことを言われ、同じように謝って、だが瞬は決して自分の行動を改めない。
これを愚鈍と言わなかったら、この世には愚鈍な行為なんて存在しないことになるだろう。

同じように瞬からティーカップを渡された星矢が、ちらりと俺の方を見る。
毎日繰り返されるこのやりとりには、星矢もうんざりしているらしい。
もっとも、星矢は いつも瞬の味方だから、奴がうんざりしているのは、瞬の親切を黙って受け入れない俺に対して、のようだったが。
「自分では何にもしないくせに、文句つけんなよなー。おまえが自分でコーヒーいれるのを邪魔立てする奴なんかどこにもいないんだからさ」

紅茶でなくコーヒーを飲みたいのであれば自分でいれろ――というのが星矢の主張らしい。
ある意味 実に尤もな意見だが、奴は超根本的な ひとつの事実を見落としている。
俺は、別に飲み物を飲みたいわけじゃないんだ。
いってみれば、俺は、瞬のいれたお茶を親切心で飲んでやっているにすぎない。
その事実を一度 星矢にも知らせておいた方がいいと考えた俺が 口を開きかけた時、俺が言おうとしていた事柄を、瞬が一瞬早く言葉にした。
「僕は自分の分のお茶をいれるついでに、みんなの分もいれてるだけだから……。氷河を僕のお茶に付き合わせてるようなものだし……ごめんね、氷河」

「……」
ここで謝るってくるのが気に入らない。
こういう人間は傷付けにくいんだ。
いつも自分を卑下してて、何をしても悪いのは自分だということにして、瞬は場を丸く収めようとする。
そうするのが当たり前だと思っているから、叱られても なじられても、瞬は実は傷付いていない――のだと思う。
だから真面目に反省することもなく、瞬は同じ過ちを繰り返す。
たちが悪いんだ、こういう奴は。
善良な人間てのは、悪意がないことを免罪符として振りかざして生きている傍迷惑な人種だ。

言いたいことを言い損ねて気分を害した俺が憎々しげに瞬を睨むと、瞬は困ったような顔をして溜め息をついた。
そんな俺たちを見て、紫龍が横からくだらない茶々を入れてくる。
それは本当に下らない茶々だった。
言うに事欠いて、奴は、
「氷河、そんな熱い眼差しを送られたら、瞬が困るだろう」
と言ったんだ。

「なに?」
何が熱い眼差しだと?
俺は瞬を睨みつけていたんだぞ!
俺は、くそくだらないことを言ってくれた紫龍に、詰まらぬ誤解を生まないよう、はっきり冷眼とわかる視線をプレゼントしてやった。
それから、同じ視線をそのまま瞬の方に巡らす。
すると、瞬は、なぜかぽっと頬を上気させ恥ずかしそうに瞼を伏せてしまった。
何を勘違いしているんだ、この馬鹿は!






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