その夜 氷河の部屋に瞬が姿を現わしたのは、いつもより1時間以上遅い時刻だった。 部屋のドアが細く開けられた時、もちろん氷河は大いに安堵した。 すぐにでもドアに飛びつき、瞬を捕えたい気持ちは強かったのだが、あえてその気持ちを抑える。 勢いをつけて追いかければ逃げ出しかねない瞬を、彼はよく知っていた。 瞬が室内に入り 後ろ手にドアを閉じるのを待ってから、氷河は初めて瞬に声をかけた。 「来てくれないかと思った」 心から望んで氷河の部屋に来たわけではなかったらしく、氷河にそう言われると、瞬は短い沈黙を作った。 その沈黙のあとに、小さな声で、 「……そしたら氷河はどうするの」 と尋ねてくる。 「おまえの部屋に行って、ぜひとも俺の お相手をしてほしいと丁重に頼み込む――かな」 「……」 では氷河は自分がここにやってきたことを歓迎している――少なくとも、迷惑とは思っていない――のだ。 その事実がわかっても――氷河自身にじかに告げられても――瞬は心を安んじることができなかった。 閉じたドアの前に立ち、そこから動こうとしない瞬に、今度は氷河が尋ねる。 「どうした」 「氷河、怒ってない?」 「何を」 「……」 問い返されたことに、瞬はすぐに答えを返すことができなかった。 あんな捨てゼリフを残して逃げ去った恋人に氷河が腹を立てていないはずがない。 立腹していなかったにしても、奇異に思い、その理由を問い質したいと考えているに違いない。 そう思ったからこそ、氷河の許を訪ねる勇気を奮い起こすために、瞬は自分の部屋で1時間もの時間を費やしていた――氷河の許に行くべきかどうかを迷っていた――のだ。 だが、氷河は数時間前の恋人の取り乱した様をなかったことにしようとしている――ように、瞬には見えた。 もしそうであったなら、それは瞬にとっては非常にありがたいことだった。 それは、先刻 氷河に投げつけた筋違いの憤りの弁解をせずに済むということなのだから。 氷河の部屋にやってくるまでの時間、瞬はずっと、氷河の詰問からどうやって逃れようかと考え続けていた。 しかし、結局適当な言い訳は見付けられなかった。 かといって、今夜氷河の許を訪ねなかったら、二人の関係がこのままなかったことになってしまうかもしれない。 そんな事態に耐えられそうにない自分を認めて、瞬はこうして彼の部屋を訪ねてきたのだ。 何もなかったことにしようといる氷河の配慮に甘えて、すべてをうやむやにしてしまえば、二人は今夜をこれまでと同じように過ごすことができるだろう。 だが、それはよくないことだと、瞬にはわかっていた。 これは うやむやにしてしまっていいことではないのだ。 二人が、これからもずっと二人でいることを望むのであれば。 だから――そう思ったから、瞬はいつものように気軽に氷河の側に近付いていくことができなかったのである。 そうして、瞬はドアの前に無言で立ち尽くしていた。 そんな瞬を見て、氷河が困ったように口を開く。 「おまえがそんなに『かわいい』と言われたくないというのなら、なるべく言わないように注意するが、おまえは本当に可愛いから、それはなかなか難しい」 「僕は女の子じゃないよ」 「おまえが女なら、俺はおまえを可愛いとは思わないと思うぞ」 「え?」 氷河の思いがけない言葉に、瞬は瞳を見開いた。 それは本当に思いがけない言葉だった。 氷河が現在の彼の恋人を『かわいい』と言うのは、彼が彼の恋人を女の子のようだと思っているから、あるいは、女の子の代替品と見ているからなのだと、瞬は考えていたのだ。 だが、氷河は、その言葉をそんなつもりで男子である人間に用いていたのではなかった――らしい。 「ど……どうして?」 「教えてやるから、こっちに来い」 瞬にそう告げる氷河は、椅子ではなく彼のベッドに腰をおろしている。 一瞬ためらいを覚えたのだが、氷河の言葉の意図を知りたい気持ちに負けて、瞬は恐る恐る氷河の側に近付いていった。 手を伸ばせば触れることができるところまで近付くと、それまで自分からは全く動こうとしていなかった氷河が素早く腕を伸ばし、瞬の左の手首を捕える。 そのまま氷河は掴んだ瞬の腕を身体ごとベッドの上に引き倒し、彼の胸の下に敷き込んでしまった。 「お……教えてくれるって……!」 瞬の抗議が、氷河の唇で遮られる。 「もちろん教えてやる」 そう言いながら氷河は、だが、瞬に瞬の求めるものを与えようとはせず、さっさと瞬が身に着けているものを取り除く作業に取りかかってしまっていた。 |