この金髪の人間――氷河という名らしい――は、自分を誰かと間違えているのだと、オリジナルは思った。 だが、誰と? そんなことは考えるまでもない。 来ているのだ、もう一人の自分が、この冥界に。 汚れた人の世で成長したもう一人の自分が。 彼はその者を『瞬』と呼んでいた。 自分のものでもあったはずの名を、オリジナルは自身の胸に刻み込んだ。 瞬。 瞬が来ている。 だが、なぜなのだろう。 ハーデスの魂の器となる自分が冥界にいれば、“瞬”はハーデスには用のないもののはずなのに。 そう考えて、オリジナルは一瞬 頭痛に襲われた。 瞬の仲間は、何と言っていたか――。 『おまえの小宇宙だけが遠くに運ばれ 消えてしまったから、ハーデスと接触したのかもしれないと――』 瞬がどこかに運ばれた――何者かによって空間的に移動した。 この冥界でそんなことができるのは、冥界の主ハーデスと、その意を受けた者だけである。 ハーデスは、瞬を自分の許に運んだのだ。 もしハーデスが“瞬”を彼の魂の器として不適切なものと判断したのであれば、ハーデスはそんなことをする必要はないはずである。 ハーデスはもう一人の自分を、彼の魂の器として選んだのかもしれない――そうでないにしても、会う価値があると認めたのだ。 醜悪な人の世で、汚れの中で生きてきた人間である瞬を。 だが、そんなことが本当にありえるのだろうか。 自身の魂の器に、完璧な清浄と完璧な潔癖を求めていた あのハーデスが? 「ハーデスのところに……行かなくちゃ」 ハーデスが万一、彼の魂の器として“瞬”を選んだのだとしたら―― 少なくとも その意味をハーデスに問う権利が自分にはある――と、オリジナルは思った。 「ああ、行こう。おまえの聖衣もきっとそこにあるな」 青い目の男――氷河――が頷き、立ち上がる。 瞬でない瞬を見詰めるハーデスの敵の瞳。 その色と輝きをどういう言葉で言い表わせばいいのか――。 こんな時にそんなことを思い悩み、オリジナルは“優しさ”という言葉を思い出した。 この人は、もう一人の僕を心配している。 彼はおそらく“瞬”を――もう一人の僕を――好きなのだ。 ふいに、オリジナルの胸が痛んだ。 そんなオリジナルの手をとって、ハーデスの敵が 世界の王となるはずだった者をその場に立ち上がらせようとする。 「よかった。ともかく、生きておまえと一緒にいられるのなら、何とかなる」 噛みしめるように呟く敵――の手。 触れ合ったその手から、何かが伝わってくる。 熱い思い、気遣い、安堵、思い遣り――。 目を閉じて、オリジナルは言葉を探した。 そして、これが“愛”という感情だと気付く――知る。 これが、『実際には存在しない』とハーデスが言っていたものなのだ――と。 それは、とても快いものだった。 いつまでも この感情に触れていたいと思う。 そう思いながらオリジナルは、そう思う自分に――今の自分に、疑念を抱くことになった。 同じ人間なのに――なぜ自分はこういうものに触れるのが今が初めてなのか。 そして、なぜこれほど快いものを、ハーデスの敵である者が持っているのか――と。 この金色の人間は、瞬と同様に醜悪な人の世で生きてきたもののはずである。 当然 その身に多くの汚れをまとっているはずだった。 汚れに満ちた人間が、これほど心地良く 心惹かれるものを持っている。 それは無限に思えるほど広く深いものだった。 「あ……あ……」 オリジナルは、そして、悟ったのである。 身を切り刻まれるような痛みと共に悟った。 ハーデスも、今の自分と同じものを“瞬”に感じたに違いない。 もう一人の自分。 人の汚れを知る者。 それでもハーデスは瞬を選んだのだ。 それは確信だった。 ハーデスは、汚れた人の世で生きてきた瞬を選んだ――冥府の王のために、冥府の王の望む通りに生きてきた者ではなく。 そして、この優しい人が選んだものも自分ではない――。 ふいに、やりきれなさのような思いに囚われ、オリジナルは氷河の手を振りほどいた。 そのまま、再びその場に座り込む。 氷河は、“瞬”の前に片膝をついて、オリジナルの顔を覗き込んできた。 「瞬。怪我でもしているのか? 動けないほど?」 彼の瞳は、薄闇ばかりの冥界では見たことのない色を呈していた。 気遣わしげで、優しい。――ハーデスよりずっと“優しい”。 この人が欲しいと、オリジナルは思った。 オリジナルは左右に首を振った。 「ここにいて。ずっとここにいて。二人がいい。一人はもう嫌」 ハーデスが自分を不要だというのなら、彼の許に行っても無駄だろう。 冥府の王、絶対の力を持つ神は、卑小な人間の言葉に耳を貸すこともしないに違いない。 そんなハーデスの許に赴き、彼にはっきりと『おまえは不要だ』と言われるくらいなら、これまで通りに、外界を見ず、ここにうずくまっている方がいい。 だが、一人はもう嫌だった。 「ああ、俺たちはいつも一緒だ。だが、その前にハーデスを倒さなければ」 「そんなことできるはずがない」 「瞬?」 「一人はいや。二人がいいの。でも、他の人はいらない」 それはオリジナルの心からの訴えだったのだが、氷河は彼の言葉を他愛のない戯れ言と思ったらしい。 微苦笑を浮かべて、彼はオリジナルを諭してきた。 「おまえは、俺が言ってほしいと思っている時には、そんな嬉しいことを言ってくれたためしがないのに。この戦いが終わって、俺たちの世界に戻った時、ぜひそのセリフをもう一度俺に言ってくれ。その通りにするから。だが、今はハーデスの許に急ごう」 「行っちゃだめ。殺されてしまうよ」 オリジナルが氷河を引きとめたのは、もし氷河が彼の瞬に出会ったなら、彼はここで見たもう一人の“瞬”を忘れてしまうだろうと思ったからだった。 そうなれば、今度こそ自分は、すべての他者に見捨てられた者として、誰にも顧みられることのない闇の中で一人で生きていかなければならなくなる。 それだけではない。 ハーデスは冥府の王。絶対の力を持つ者。 ハーデスの許に行ったなら、この優しい目をした“人間”は、彼にその存在を消されてしまうかもしれないのだ。 「それは覚悟の上」 “瞬”が切なげに見上げるので、氷河はもう一度 彼の瞬のために笑顔を作った――らしかった。 「死なないさ。俺たちはハーデスを倒し、俺たちの世界を守り、そしてずっと二人で生きていくんだ」 「……」 希望を失っていない眼差し。 明るく輝く、優しい瞳。 これは瞬のためのものなのだ。 その残酷な事実を認めた時、オリジナルの心の中には不思議な感情が生まれてきた。 「……あなたの瞬はもういない」 その感情に衝き動かされて、オリジナルは呟いていた。 「?」 「瞬はハーデスに囚われてしまった。もう逃れられない」 「何を言っているんだ。おまえはここにいるじゃないか。俺の瞬はちゃんと生きている」 氷河の温かい手が頬に触れてくる。 この温もりも、本当は瞬のものなのだ。 オリジナルは、自分の言葉と氷河の手の感触で、自身の考えを明確な輪郭を持って はっきりと認識した。 “瞬”はハーデスに囚われた。 もう本来の瞬に戻ることはできないだろう。 その事実を知ったら、今は瞬を好きなこの人も自分を見てくれるようになるかもしれない。 そして、万一ハーデスを倒すことができたなら、それはこの世界からハーデスと共に“瞬”を消し去ることでもあるのだ。 今、ハーデスと瞬は同じものになっているのだから。 ――オリジナルは、そう考えたのである。 それは間違った希望なのかもしれないと思わないでもなかった。 だが、ハーデスと一つになることで孤独から逃れられるという希望が失われた今、オリジナルには別の希望が必要だったのだ。 彼が生きていくために。 「ハーデスのところに……行こう」 オリジナルは立ち上がった。 これまで自分にとって絶対であり唯一無二の存在であったハーデスと、もう一人の自分の消滅を、今 自分は願っている。 そんな望みを望んでいる自分自身が恐ろしくて、オリジナルは少し足元がふらついた。 「ああ」 彼の瞬ではない瞬の言葉に、氷河がほっとしたような表情を見せる。 冷たいばかりだったハーデスと違って、この人はどんな表情をしても優しく温かい――と、オリジナルは思った。 「奴のいる場所を知っているのか」 「ジュデッカ――多分」 瞬の身を案じる人を伴って、オリジナルは、彼がハーデスによって与えられた石の家を出た。 |