城戸邸の客間は、これまた 金がかかっているのが一目でわかる部屋だった。 応接セットが仰々しい他に目立った調度はなかったが、壁に1枚モネの絵が掛けられている。 まさかグラード財団の総帥が自宅の部屋にイミテーションを飾るはずがないから、当然真作だろう。 それだけで数億。 俺は常々、どうして日本人は異常なまでに印象派の絵が好きなのか不思議に思っていたんだが、こうしてみると、印象派の絵というのはでしゃばったところが少なくて、さりげない飾りとしては最適な代物に見えた。 ゴッホやゴーギャンとなると、また話は別だろうが。 その数億の客間のソファに腰をおろし、俺は早速自分の推察の裏を取る作業に取りかかった。 「その氷河って男は何者なんだ? 死んだんだろ。さっきの子の――」 「瞬だ」 「瞬の何だったんだ」 何より、そこが肝心なことだ。 瞬と氷河の関係。 それは、氷河の代役を務めることになる俺と瞬チャンの関係ということになるんだから。 「恋人……かな。氷河は4年前、あるトラブルに巻き込まれて死んだ。今はシベリアの氷の下にいる。……多分」 長髪の紫龍とかいう男が、俺に俺の期待通りの答えを返してくれた。 「あの子の恋人」 その時、俺は目を輝かせたに違いない。 あの美少女の恋人の代役。 大変結構な仕事だ。 そんな俺の態度が気に入らなかったのか、星矢が数億の客間にタダでも聞きたくないような怒声を響かせる。 「なに考えてやがるんだ! 言っとくが、瞬は、あんなふうに見えても正真正銘の男だからな! そういう役得はない!」 「なに……?」 俺は一瞬、星矢は何を馬鹿げたことを言っているんだと思った。 俺を牽制する策にしても、もう少し信憑性のあることを言えばいいのに――と。 星矢の言葉が嘘でも何でもない真実とわかったのは、城戸沙織や紫龍が、星矢の“嘘”を聞いても全く表情を変えなかったから、だ。 彼等が馬鹿げた嘘を聞かされた人間なら示すであろう反応を見せなかったから。 ということは。 「……氷河ってのは女だったのか」 「阿呆。そのガタイをした女がいたら、沙織さんでも逃げ出すぜ」 「てことは、あの子と氷河って奴は、いわゆるゲイ……だったのか?」 導き出される結論は、そういうことになる。 今どき そう珍しいことではないが、多数派の性嗜好でもない。 俺の言葉を聞いて、星矢は嫌そうな顔をした。 ゲイに偏見があるのではないらしく、瞬と亡くなった男の関係をそういう言葉で表現されたくない――というような顔。 本当に、呆れるくらいに、考えてることが表情に出る奴だ。 こっちの気分がよくなるほど、わかりやすい。 こいつにとって、瞬と氷河ってのは、いったいどういう位置にいる人間だったのか、俺は興味を覚えた。 いや、それより、あの子――瞬だ。 あれだけ綺麗な子なら、本当に男なのだとしても寝てやってもいい。 『そういう役得はない』と言われたばかりだったのに、俺は何のためらいもなく、そう思った。 他に適当な言葉が思いつかないから『美少女』と言っただけで、瞬は男にも見えないが、女にも見えない“人間”だった。 あの子を抱くことに同性を抱く意識は持てない。 持つ必要もないだろう。 それくらい綺麗な子だ。 どう言えばいいんだろう。 清純、無垢、清潔、無機質、無性――。 あの子に触れることは、不純物の混じっていない水に手を浸したり、野に咲く白い花を摘む行為に似ている。――そんな気がする。 花と寝て性的肉体的な満足が得られるかどうかは疑問だが、少なくともそうすることに嫌悪感を覚えることはないだろう。 他の人間はいざ知らず、俺は覚えない。 ――と、そんなことを考えていたら、瞬が、カップやポットの載ったワゴンを押して客間に入ってきた。 瞬は、使用人に頼まず自分でお茶を運んできたらしい。 星矢がその時を見計らっていたように、やけに大きな声で俺に尋ねてきた。 「おまえ、名前は何ていうんだ」 「氷河」 「……」 俺は白々しく答えてやった。 星矢は、瞬の前で俺に『氷河』以外の名を言わせたかったんだろうが、そうはいくか。 おまえは わかりやすすぎるんだ。 悪巧みをうまくやり遂げられるタマじゃない。 一見静かな、だが丁々発止の俺と星矢のやりとりに気付いていないはずはないのに、城戸沙織は終始ポーカーフェイスをキープしていた。 悪巧みなら、この女の方が星矢よりはるかにうまくやりそうだ。 「瞬、とりあえず1ヶ月の予定で、彼はここで暮らすことになるわ。あなた、面倒を見てあげてくれる?」 「あ、はい」 家人と客人の前にティーカップを置きながら、瞬がちらちらと俺を盗み見る。 亡き恋人と瓜二つの男。 彼女――もとい、彼――の所作は、当然といえば当然、自然といえば自然なことだったろう。 そして、星矢は、それも気に入らないらしい。 「部屋は氷河の部屋を使ってもらって。そのままにしてあるのでしょう? 掃除も毎日あなたがしてくれているのよね」 城戸沙織の言葉に、瞬が無言で頷く。 亡き恋人の部屋の掃除を毎日欠かさない健気な恋人。 実に泣ける話だ。 「氷河の部屋を使わせんのかよ!」 自分は掃除ひとつしていなかったんだろうに、星矢が城戸沙織の指示にクレームをつける。 城戸沙織は、だが、単なる思いつきで その指示を出したわけではなかったらしく、彼女は星矢のクレームをきっぱりと退けた。 「私が彼に期待しているのは、瞬だけでなく あなた方全員に、彼が何らかの変化をもたらすことなのよ。星矢、紫龍、瞬。あとはあなた方の考えに任せるわ。お願いね」 それだけ言うと、城戸沙織は、仕事の予定があるとかでさっさと客間を出ていった。 あとに残されたのは、おそらく自分のこれからの行動に確かな指針を持てずにいる4人の人間――と、気まずい静寂。 4人して黙り込んでいてもどうにもならないと思ったのか、城戸沙織の退出後 最初に口を開いたのは瞬だった。 「じゃあ、お部屋に案内します。荷物は――」 瞬が口にしたのは、言ってみれば、どうでもいい用件だったんだが、俺は重苦しい沈黙が途切れたことに、安堵感のようなものを覚えた。 あとの二人も似たようなものだったろう。 「衣食住 全部面倒みてもらえるって聞いてたもんで、手ぶらだ」 それでも普通の人間なら小さな手荷物くらいは持ってくるものだろうに、瞬はそんなことを気にした様子もなく浅く頷き、掛けていたソファから立ち上がった。 客間を出る時、心配そうな星矢の顔が俺の視界の端に映った。 星矢は悪い奴ではないんだろう。 俺は奴に嫌われているようだったが、俺は奴を そう嫌いではなかった。 |