自由と安住。 ヒョウガはそのどちらに より重い価値を置いているのか、それも探ってみよう――。 そんなことを考えながらエプソムダウンズの馬場に向かったシュンは、そこで乗馬用の服とブーツを身につけたヒョウガの姿を見付けた途端に、自分がここに来た目的を忘れてしまったのである。 貴族だから似合う――というのではないだろう。 貴族もブルジョワジーも労働者階級の人間も、作りは同じ人間なのだ。 ともかく、厩舎の前で気が立った漆黒の馬を落ち着いた様子であしらっているヒョウガの姿は、シュンの目に、非常に美しい一幅の絵のように映った。 それもかなり出来のいい作品である。 自然で気負いがなく、それでいて適度な緊張感が感じられる絵。 まもなく、その絵に描かれた人間は自分の鑑賞者に気付き、僅かに驚いたように目をみはった。 「エスメラルダさん?」 彼に名を呼ばれて我にかえったシュンは、男に見とれてどうするのだと、再度 自分に活を入れることになったのである。 自分がヒョウガの身分に気後れする必要性はないし、そんなことはありえない。 故に彼と自分は対等だと自らに言い聞かせ、シュンはヒョウガに正面から向かい合った。 「あ、僕、今日は男子なので」 「?」 「未婚の娘が一人で出歩いてるのって聞こえが悪いから、男の格好している時にはシュンって呼んでください」 「……」 ヒョウガにはそれは突飛極まりなく思える申し出だったのだろう。 昨日の 打てば響くような言葉での反応は、今日の彼から返ってくることはなかった。 「じゃじゃ馬って思った?」 シュンが尋ねると、ヒョウガは声を出さずに笑った。 否定しないことが肯定になることはヒョウガもわかっているだろう。 女性への礼儀として、彼は、シュンの突拍子のない言動にノーコメントを通そうとしたものらしい。 「すごく大きくて立派な馬。維持費がかかるでしょう」 事実、シュンが話題を変えると、 「破産寸前の人間が持っているべきものではないと?」 彼はすぐにシュンの皮肉を解した答えを返してきた。 「誰かに譲ってしまった方がいいのはわかっているんだが、気性が激しくて、引き取り手がいないんだ。たとえ引き取り手が現われたとしても、この子は本当に新しい飼い主に可愛がってもらえるかどうかが怪しいほどのじゃじゃ馬なので、心配で手放せない」 ヒョウガが言うように、その大きな黒い馬は、子を産んだばかりの母馬のように、あるいは、自分が他者に自由を奪われていることに激しく憤っているかのように 鼻息を荒くし、落ち着きなく幾度も前足を地面に叩きつけていた。 やんごとなき貴族の令嬢なら――平民の娘でも――その苛立ったような様子に恐れをなして、まず好んで近付こうとはしないだろう。 ヒョウガはそんな馬が心配で手放せないと言う。 黄金の城の中で自分が飢え死にしそうでいる時に――と、シュンはつい苦笑してしまったのである。 これが貴族の鷹揚さだというのなら、なるほど貴族というものは幸福な人種だと思った。 「じゃじゃ馬が好きなの?」 シュンが半ばからかうように尋ねると、彼は、しばらくシュンを無言で見詰めてから、 「ああ。手応えがあって楽しい」 と答えてきた。 それで、シュンの心臓は大きく跳ね上がってしまったのである。 ヒョウガはいちいち女たらしだと思う。 男の身で彼の言葉に心臓を高鳴らせていることを悟られないようにするために、シュンはふいと横を向いた。 そして、その弾みで、シュンは一つの考えを思いついたのである。 気の立った馬を恐れてか、英国屈指の貴族に近寄り難さを覚えてか、ヒョウガと彼の馬は馬場にいる者たちに遠巻きにされていた。 見物人――証人――の数に不足はない。 グラードの娘が、いかにも神経質そうな この馬を刺激し暴れさせ、ここで大騒動を起こせば、嫁入り前の娘の評判を気にかけている父親がヒョウガに口止め料を払うことは不自然なことではないだろう。 もちろん、口止め料を払う側も受け取る側も秘密は固く守るだろうが、この馬場にいる証人たちが世間にあれこれと噂を流してくれるに違いない。 それで『世間が認める理由』を作ることができる。 未婚の娘の身持ちの固さが何より重んじられるこの英国で、父親が娘のためにいくら金を積んでも、それを不自然なことと考える貴族はいないはずだった。 『思いついたら即実行』がシュンの身上だった。 『急いている人間は損をするが、迷っている人間はそれ以上に損をすることが多い』と、シュンは現代の英国で最高の成功者である父に教えられていたのだ。 「僕より鼻息の荒い じゃじゃ馬がいてくれてよかった。僕のじゃじゃ馬振りが目立たなくなるもの」 そう言いながら、じゃじゃ馬どころか暴れ馬になりかけている巨大な体躯を持つ馬に つかつかと正面から近寄り、シュンはその鼻面を撫でようとした。 もちろんシュンは、そんなことくらいで この馬が口止め料が必要なほどの騒ぎを起こしてくれるとは思っていなかった。 隙を見てヒョウガが手にしている手綱を奪い取り、無邪気を装って その手綱を振り回すくらいのことはするつもりだった。 ――のだが。 「エスメラ……シュンっ!」 「えっ !? 」 シュンがヒョウガに名を呼ばれた時、漆黒のじゃじゃ馬は既に暴れ馬になっていた。 それでなくてもナーバスになっていたところに、見知らぬ人間が恐れた様子もなく その身に触れようと手をのばしてきたのだ。 臆病な馬は、当然怯えた。 怯えて、勢いよく前足を蹴り上げた反動で、馬がシュンの前に仁王立ちになる。 後ろ足で立ちあがった黒い馬の姿は、シュンの目に、自分よりも3倍は上背のある巨大な悪魔のように映ったのである。 人間に自由を奪われている不幸な家畜と思っていたものが、これほど猛々しい獣だったとは。 足がすくんで動けなくなったシュンは、その凶暴なヒヅメに蹴り倒されることを覚悟して、固く目を閉じたのである。 その瞬間、シュンの身体は何か温かいものに包まれていた。 それがヒョウガの胸と腕だったことにシュンが気付いたのは、その温かいものがシュンの耳許で低い呻き声を洩らした時。 彼の馬が2本の力強い前脚を地面に叩きつける直前に、ヒョウガはシュンの身体を横から抱きしめるようにして、シュンを馬のヒヅメの下から逃れさせてくれていた。 倒れる際、シュンの身を転倒の衝撃から庇おうとして、彼はしたたかに その肩を厩舎を囲んでいる鉄柵に打ちつけたらしい。 つい先程まで一幅の絵のようだと思っていた人の姿は馬場の軟らかい土にまみれ、その端正な顔は引きつったように歪められていた。 「公爵っ! 公爵、大丈夫っ !? 」 彼の身体の上からすぐにどいて、シュンは真っ青になってヒョウガの顔を覗き込んだ。 「無事か」 ヒョウガが片方の目だけを開け、低い声でシュンに尋ねてくる。 「はい。ご……ごめんなさい! こんなことになるなんて……!」 こんな事態を、シュンは全く想定していなかった。 シュンは、不用意に近付いてくる人間に恐れをなした馬が、自分を縛りつけている手綱を振りきって どこかに向かって走り出し、そのついでに馬場の施設を派手に壊してくれればいいと、そんなことを考えていたのだ。 「怪我はなさそうだな。よかった。ああ、できれば、俺のことはヒョウガと呼んでくれ」 無茶なことをした素人を叱責もせず、ヒョウガがこんな時にそんなことを笑って言うので、シュンは泣きたくなってしまったのである。 シュンは、自分が多少の怪我を負うことになっても構わないとは思っていたが、ヒョウガの身に被害が及ぶようなことは、断じて考えていなかった。 ヒョウガの胸にぽろぽろと涙を零し、シュンは左右に幾度も首を振った。 「ごめんなさい……! 父さんがヒョウガに資金を援助するには名目が必要だって言うから、僕の不注意で騒ぎが起こったら、その口止め料として、父さんがヒョウガにお金を渡しても不自然じゃないことになると思って――。ヒョウガに怪我をさせるつもりなんてなかったのに……!」 「……そんなことのために、あんなに気が立っていた馬の前に飛び出ていったのか」 その気が立っていた馬は、自分の飼い主が自分のせいで地に倒れたことに衝撃を受けたのか、鼻息こそ荒いものの、今は まるで脚だけが石になって動けなくなってしまったかのように大人しくなっている。 「こ……この馬、自由に走りたがっているように見えたから、一石二鳥だと思って」 シュンの無謀の理由を聞いたヒョウガは あっけに取られ、同時に身体の痛みまで忘れてしまったらしい。 薄く微笑しながら上体を起こし、それから彼はにわかに真顔になった。 「家のことは本当に俺が自力で何とかする」 「でも……公爵家の借金は、ヒョウガが一人で こつこつ働いてどうこうできる額じゃないでしょ。ダイヤモンドの鉱脈を見付けるか、大金持ちの妻でも迎えないことには――」 シュンはヒョウガにそういうことをしてほしくなかった。 相手がエスメラルダでなくても、彼にそんなことをしてほしくなかったのだ。 ヒョウガが、今度はひどく穏やかな笑みを浮かべ、シュンの頬に手を伸ばしてくる。 「エスメ――シュンには好きな人がいるんだろう」 「うん」 「その人のためにも、自分の身は大切にしないと。シュンが怪我をしたら、その人が嘆くのではないか」 「あ……」 ヒョウガに言われて、シュンはエスメラルダや父の顔を思い浮かべた。 シュンがグラスを割ったくらいのことでも大袈裟に騒ぎたて、怪我はないかと何度も念を押してくるエスメラルダはもちろん、滅多にそんな素振りは見せないが、実はかなり親馬鹿な父も、息子がこんな危険な真似をしたと知ったら、顔面蒼白になって怒り狂うに違いないのだ。 「ごめんなさい……」 素直に、シュンはヒョウガの前で項垂れた。 「……」 そんなシュンをしばらく無言で見詰めていたヒョウガが、独り言のように呟く。 「妬ましいな、その男」 「え?」 シュンは、反射的に大きく瞳を見開いた。 どういうつもりでそんなことを言うのかと、ヒョウガの瞳を覗き込んで確かめたかったのだが、シュンにそうすることを、ヒョウガは許してくれなかった。 少なくとも、大人しくなった馬の方に一度視線を投げてから その場に立ち上がったヒョウガは、シュンがこれまでに見知っている彼と、なんら変わったところはなかった。 にこやかな笑みを浮かべて、シュンに手を差し延べてくる。 「自宅に迎えの馬車を寄こすよう、使いを出しておこう。それまで、休憩室で一緒にお茶でも」 「……」 一瞬ためらってから、シュンは彼の手を借りて、その場に立ち上がった。 |