「情けは人のためならず、かあ」 今ではすっかり勝手知ったる他人の城となってしまった公爵家の、広さだけはある居間のソファで、シュンはしみじみと呟いた。 『おかげでシュンに会えた』というヒョウガの言葉に異論を唱える気にはなれなかったし、何よりヒョウガ自身が亡くなった母君を熱愛しているようだったので、シュンはこれまでヒョウガに面と向かって彼の母親を非難したことはなかった。 それでもシュンは、心のどこかに、ヒョウガの母親の無謀な慈善活動への傾倒を恨む気持ちを抱いていたのである。 しかし、公爵家の危機がこういう形で収まってみると、彼女の為したことは、公爵家を破滅に追い込むことはせず、公爵家の財産と身分に守られて自堕落な一生を送ったかもしれない息子に適度な試練を課し、世の中の仕組みと現実を教える――という、一人の母親が自分の息子に与えられる最善最高の愛情と教育だったと言わざるを得ない。 その上、彼女は息子を愛し、息子に愛されていたのだ。 幸福な母親、幸福な息子。 二人はそういうものたちなのである。 「ヒョウガのお母さんの優しさがヒョウガを救ったことになるね」 「いや、シュンが俺の幸運の女神だったんだ」 『僕は女神じゃないし、結局 金を儲ける手段を考えることしかできなかった』と言いかけて、シュンはその僻みめいた考えを言葉にするのをやめた。 ヒョウガの母の愛情は崇高で美しく天上的、それに比して、自分がヒョウガに提供できたものは世俗的で地上的。 どちらが よりヒョウガのためになる行為だったのかと考えると、シュンはヒョウガの母には敵わないと思わざるを得ず、その事実を口にすることが、シュンはとてもつらかったのだ。 「これで、ヒョウガは公爵家の借金をすっかり返すことができるし、もう政略結婚をする必要もなくなったね」 ヒョウガの母が息子に残した荘園で造られるワインは、フランス産のものにはない独特の渋みが受けて評判は上々。 もちろん まだまだ改善の余地はあるが、それらのものはこれから毎年ヒョウガに相当の収益をもたらすことになるだろう。 借金は完済、ワイナリーは定期的な収益があがってくる。 となれば、ヒョウガは、公爵家の城に使用人を50人は雇えるレベルの暮らしを取り戻すことになるのだ。 「自分より裕福な家の令嬢は妻に迎えないって言ってたけど、あと5年もすれば、ヒョウガは英国のどんな令嬢とでも結婚できるようになるよ」 「シュン、俺は……」 ヒョウガはそんなことのために、この半年、寝る間も惜しんでワイン醸造施設の設計図を睨みつけたり、より条件の良い販路を求めてフランス人との商談を繰り返してきたのではなかった。 本当にシュンはわかっていないのかと、彼はシュンの表情を窺い見ることになってしまったのである。 シュンは本当に“わかっていない”のかもしれなかった。 「あ、姉さんは駄目だよ。姉さんには好きな人がいるんだから」 などという、頓珍漢な釘を刺してくるところを見ると。 ヒョウガは、思わず長い嘆息を洩らしてしまったのである。 「姉さんは、お金より兄さんが好きなんだって。一文無しでもいいから帰ってきてほしいって言うんだ。変だけど……素敵でしょ」 「君の兄上なら大成するだろう」 「だといいけど、兄さん、変なところで情に流されやすいから、心配でならない」 自分はそうではないと、シュンは思っているのだろうか。 真顔で兄の身を心配してみせるシュンに、ヒョウガは少々面食らうことになってしまったのである。 放っておいてもシュン自身は困りもしない破産寸前の貴族のために これだけ東奔西走してくれた当人が、自分は非情に徹することができる人間だと本気で信じているのだろうか――と。 「シュンは恋をする気はないのか」 ヒョウガはさりげなく、シュンに尋ねてみた。 「僕は……いいの。兄さんと姉さんが幸せになってくれればそれで」 ヒョウガに切なげな眼差しを向けてから、シュンはその瞼を伏せた。 「恋なんかしたら、きっと冷静な判断力を失ってしまう。姉さんだって、恋人を放っておいたまま帰ってこない兄さんなんかより、ヒョウガを選んだ方がずっと利口だと思うのに、そうしない。恋をすると、人間は損得勘定のできない馬鹿になるんだ。恋なんて、僕……」 それが“幸福な馬鹿”だということはわかっている。 恋が生きることの原動力になることも、今ではシュンにもわかっていた。 ヒョウガに出会った瞬間からほぼすべての時間、シュンを生かし続け、精力的に働かせ続けていたのは、紛れもなく恋の力だったのだから。 「シュン……」 公爵家の危機は去った。 前公爵夫人の思いがけない遺産の助けを借りることになったとはいえ、シュンの計画通り、彼女の残した荘園は大きな収益を生む場所に一変した。 経済的に公爵家を救うという当初の目的は果たされたというのに、シュンは少しも嬉しそうではない。 だが、ヒョウガは、逆に、その事実に力を得ることになったのである。 経済的な成功と安定だけでは、人は満ち足りることはないのだと確信して。 公爵家の破産の危機が回避された今こそ、自分はやっと本来の目的に立ち返ることができる。 そう考えて、ヒョウガは、彼が本当に欲しいものを手に入れるための行動を始めた。 「エスメラルダ嬢は、今考えてみると惜しいことをしたと思う。俺はああいう顔が好みだったんだが」 シュンが腰掛けているソファの前に移動し、シュンの顔を覗き込みながら、言う。 ふいに近付いてきた姉の元求婚者の瞳に戸惑った様子で、シュンは僅かに身じろいだ。 「姉さんは諦めて」 「諦められない」 「姉さんは――」 「諦めきれないんだ、シュン」 これが、あの暴れ馬に臆することなく近付いていった人間と同一人物なのかと疑いたくなるほど――シュンは臆病に身体を小さくして顔を伏せている。 じれったくなって、ヒョウガはシュンをその場に立ち上がらせ、その身体を抱きしめた。 そうされる前からシュンの心臓は早鐘を打っており、その頬が上気して熱を帯びていたことを、シュンを抱きしめて初めて、ヒョウガは知ることになった。 「ぼ……僕、姉さんと同じ顔してるけど、男だよ」 「彼女よりシュンの方がずっと綺麗だ」 エスメラルダよりずっと綺麗なシュンの頬と、そして唇に、唇で触れる。 「そういう無意味なお世辞は――」 シュンは真っ赤になって、エスメラルダより綺麗な唇を微かに震わせた。 「シュンが好きなんだ」 「だから、僕は男で――」 そう言いながら、シュンは自分を抱きしめている男の腕と胸から逃げようとはしない。 言葉と態度の矛盾が可愛らしすぎて、ヒョウガは、シュンを抱く腕に更に力を込めた。 「俺は金よりシュンが欲しいんだ」 その告白に驚いたように、ヒョウガの胸の中でシュンが身体を微動させる。 そして、やはりヒョウガの胸の中で、シュンは呟いた。 「お金より恋の方が大切なんていうのは、姉さんだけかと思ってた……」 「シュンもそうなのか。恋より金の方が大切だと」 「だって……お金を儲けるのって楽しいもの。自分の才能と幸運と努力次第でどうにでもなる。結果が明白に出るのも面白いし、儲けたお金を社会に還元することで、自分以外の人の役にも立てるし」 「それはそうだが……」 自分が シュンが楽しいと言う分野の才能にあまり恵まれていないということは、他でもないヒョウガ自身が誰よりも明確に自覚していた。 資本と才覚を持つ者が労働者を支配し、貴族の力をも凌駕しようという この時代、最も価値があると思われる その才能。 その才能を自分が有していないことに、だが、ヒョウガは気後れを感じることはなかった。 その才能だけでは人は幸福になることはできないと、彼は信じていたのだ。 現に、公爵家が経済的に救済された今この時も、彼が心底から欲しいと願うものは、銀行の口座とは別の場所にある。 「人間が生きていく上で、金儲けよりもっと楽しいことがあるのを知っているか」 「え」 「助けられているばかりでは何だから、俺が教えてやろう。ここでもいいんだが、できれば寝室で」 「あ……あの……」 この時代 最も望ましいとされている才能に恵まれている人間が、耳たぶまで薔薇色に染めて、この時代 最も望ましいとされている才能に恵まれていない男の腕を振り払わない。 胸中で様々な葛藤はあったらしかったが、結局シュンは最後には その頬をヒョウガの胸に押し当ててきた。 「ぼ……僕、お金儲け以外のことは よく知らないの……。父さんはそれ以外のことはあんまり教えてくれなかったし――」 「シュンは頭がいいし、どんなことでもすぐに習得するだろう。そうでなかったとしても、俺が一生かけて教えてやる」 「僕、ヒョウガに褒めてもらえるように頑張る……!」 シュンの健気な決意を聞かされたヒョウガは、感情を隠し通すことを美徳とする英国貴族らしくなく、声をあげて笑ってしまったのだった。 人が生きていくには、ちょっとのお金と、そして愛情が必要。 そのどちらが欠けても、人は人の作った社会で幸福に生きていくことはできない。 もちろん、二人はその両方共を手に入れて、それからもずっと幸福に過ごしました。 才能を有し、努力を怠らず、幸運を招く意思があれば、それが必ず報われた 古きよき時代のことです。 Fin.
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