食事をとる時に時折カップをひっくり返すくらいのことはしでかしたが、それ以外の場では、氷河は視力を失っているということが信じられないほど 普通の生活ができていた。 彼は、自分の目が光を感知できなくなっていることを城砦内の者たちに知らせておらず(殊更 隠してもいなかったが)、その事実に気付いているのは ごく少数の兵たちだけのようだった。 その兵たちも、聖闘士である氷河にはそれは大した問題ではないのだろうと思っているらしい。 瞬も、その考えには同感だった。 実際に氷河は健常者と同じ生活ができていたし、瞬は、むしろ夜間には 氷河は目が見えている人間より明瞭にものが見えているのではないかと思うことさえあったのである。 視力を失った者は闇の中で生きているのだから、光がなければものが見えない者たちに比べて、夜の闇の中でこそ不自由なく動くことができるのかもしれない――と、瞬は思っていた。 通常の生活に支障はない。 問題は、五感で得られる情報を総合的に判断して 己れの置かれた状況を正確に把握し、その状況に最も適切な対応をとらなければ命を失いかねない場合――つまり、戦いの場でも、氷河が以前と同じように動けるのかどうかということ。 氷河が彼自身に失望する事態を招きかねないので、瞬は決してその考えを口にすることはしなかったが、氷河にはもう戦場には立たないでほしいと、瞬は願っていた。 だが、世界は、瞬が願い望む通りに動こうとしない。 瞬が氷河の許にやってきて半月が経った頃、エレフシスの城砦に敵の襲撃があった。 敵襲は真夜中にあった――夜襲だった。 敵は 氷河の胸の中で、瞬は、いつもと違う空気の緊張に気付いた。 “行儀のいい”瞬は、すぐさま――だが静かに――寝台から下りてチュニックを身につけたのである。 「100人……200人……数は そんなとこかな。闇に紛れて砦を乗っ取ろうとするには多すぎる数だね。指揮官が無謀なのかな。小宇宙も感じない。俗事不介入の禁を破った聖域に煮え湯を飲まされたスペインあたりが、憂さ晴らしに兵を送り込んできた――ってとこみたい。すぐ片付けてくるから、氷河はここにいて」 『氷河はここにいて』――その一言が、氷河の気に障ったらしい。 氷河は瞬の腕を掴んで、その身体を寝台の上に引き戻した。 「おまえこそ、ここで大人しくしていろ。あれだけ何度も俺を受け止めたばかりなんだ。おまえは、まともに立ってもいられないだろう」 「僕が自分の足で立ちあがったのがわからなかったの。あんな、ほとんど力を感じない敵、氷河の手を煩わせるまでもないよ! 氷河は戦闘が終わってから、仕置きを決めるためにゆっくり出てきてくれればいいよ。これ着てね!」 氷河が昨夜 寝台の下に“行儀悪く”脱ぎ捨てた胴衣を彼の頭の上に放り、瞬は氷河の手を振りほどこうとした。 が、氷河はその手を放さない。 「おまえが『僕、壊れちゃう』とか何とか言って泣き叫んでいたのは、ついさっきのことだぞ。おまえはここにいろ!」 「僕がほんとに壊れちゃうわけないでしょっ! 馬鹿なこと言わないでよ!」 互いに相手をこの場に残そうとして二人が言い争っている間に、城砦内にいる見張りの兵が侵入者に気付いたらしい。 「敵襲だーっ !! 」 砦の庭で、味方に敵の襲撃を知らせる喚声があがる。 痴話喧嘩に夢中になっていた氷河と瞬は、はっと我にかえり、揃って舌打ちをした。 階段を使うのもまどろこしく思ったのか、瞬が部屋の窓から砦の庭に飛び下りる。 瞬に投げつけられた服をそのまま身につけて、氷河もすぐにその後を追った。 ――のだが。 聖域の見張り台も兼ねた高塔のある城砦の庭には、夜にはいくつもの松明が焚かれている。 そこでは既に夜襲をかけてきた敵と城砦に詰めていた兵たちの戦いが始まっていた。 そして、瞬と氷河が部屋を飛び出た頃には、その戦いは決着がつきかけていたのである。 敵は、神の意を受けた者たちではなく、ロクロアでの大敗は聖域の介入によるものと逆恨みをしたスペイン軍の一隊――“一般の”兵だけで構成された中隊だったらしい。 それでも、数だけなら この城砦に詰めている兵の10倍はあったろうが、その敵兵のほとんどは、指揮官とその恋人によって毎晩 繰り返される夜宴のせいで溜まっていたものを発散するように獰猛になった氷河の部下たちによって既に打ち倒されていたのだ。 城砦にいる兵たちは、小宇宙で戦う聖闘士に比して攻撃が洗練されておらず、その戦い振りには無駄な動きが多かったが、それでも聖域で普通の人間ならすぐに音をあげるような鍛錬を続けてきた者たちである。 “一般の”軍隊の兵は、彼等の敵ではなかった。 戦局を把握した氷河と瞬は、本音を言えば、あのまま眠っていればよかったと思ったのだが、立場上 寝台にとって返すわけにもいかない。 そういうわけで二人は、既に数少なくなっていた敵を撫でるように倒すことを始めたのである。 とはいえ、二人はだらだらと気の抜けた戦いをしたわけではない。 聖域の者たちにとって、“一般の”兵は最も扱いに困る敵だった。 なにしろ、こちらは敵の命を奪うわけにはいかないのに、彼等は殺気に満ちている。 しかも彼等は殺傷能力のある武器を、その手に携えているのだ。 勝つとわかっている戦いだからこそ、その気になれば指先一つで命を奪える相手だからこそ、聖闘士は神経を緊張させた状態で、彼等と戦わなければならなかった。 松明が火の粉を撒き散らす夜の庭で、氷河は目が見えているような戦い方をしていた。 敵に致命傷を負わせずに意識を奪うことを、実に鮮やかにしてのける。 目の見える瞬の方が、闇に距離感を失って適度な加減ができなくなっていた。 そうして、立って戦っている敵の数が10を切ると、氷河と瞬は戦いをやめた。 「なんだか……僕たちが出てくるまでもなかったみたい」 「そうだな」 そんなことを言い合いながら、氷河と瞬が互いの側に歩み寄る。 気の抜けた様子で、それでも油断なく戦局に意識を向けているようだった氷河が、ふいに声を慌てさせたのはその時だった。 「瞬、怪我をしたのかっ !? 」 「え?」 氷河は何を言っているのかと瞬は怪訝に思ったのだが、彼がそんなことを言い出した理由は、瞬にもすぐにわかった。 瞬が一枚だけ身につけていた薄手のチュニックの裾が大きく破れ、太腿があらわになっていたのだ。 だが、それは戦闘の最中に敵によって切りつけられたものではなく、塔の窓から庭に飛びおりる際にどこかに引っかけてしまったものだった。 この戦闘で、瞬は敵に指1本触れられていなかった。 瞬の方から彼等に 怪我をしているわけではないのだということを氷河に知らせようとした瞬は、そして、気付いたのである。 アンドロメダ座の聖闘士が身に着けている衣服が破けているということは、目が見えている者でなければわからないはずのことだという事実に。 「氷河……見えてるの?」 瞬に問われた氷河が、ぎくりと身体を強張らせる。 庭の各所で焚かれている松明の炎が、瞬に確信を運んできた。 炎の中で、氷河の瞳が、戸惑ったように瞬を見詰めている。 その瞳の動きは、見えている者のそれだった。 「見えるようになったんだねっ!」 戦闘はまだ完全には終わっていなかったのだが、瞬は感極まって、飛びつくような勢いで氷河の首にしがみついていったのである。 撃退すべき敵がいなくなって手持ち無沙汰になっていた氷河の部下たちが、そんな二人を見て冷やかすような口笛を夜の庭に響かせたが、瞬はそんなことは全く気にならなかった。 瞬は、その時、喜びをしか感じていなかった。 氷河の目が見えるようになったことを喜ぶ気持ちしかなかった。 瞬は、敵に襲われ苦境に立たされたアテナの聖闘士の身に万一のことがないように、今夜アテナが氷河に慈悲を垂れてくれたのだと信じていたのである。 |