ただ一つのもの――今日こそはそれが手に入るだろうかと考えながら、俺は、俺の部屋のベッドに腰をおろしている瞬の前で上体を傾け、俺の春の精にキスをしようとした。 が、いつもと同じように瞬は横を向き、俺の願いを退ける。 「恐くてロマンチックなお話だね。でも――」 まるで俺の気持ちをはぐらかそうとするかのように、瞬は氷姫の話を続けた。 「でも、本当だったらどうするの? 氷姫に再会し、彼女に魅入られて二度目のキスをしてしまったら、氷河はこの世界での命も記憶も失ってしまうの?」 「その心配は無用だ。俺がキスしたいと思う相手は、おまえしかいないから」 そう、瞬しかいない。 この、優しい姿をした綺麗な人間しか。 なのに、瞬は、 「そんな話聞いちゃったら、なおさら恐くて氷河にキスなんてできない。氷河が僕のこと忘れちゃったら嫌だもの。キスって嫌い。どうして人間はそんなことするんだろう……。誰が最初に思いついたのかな、キスなんてこと」 どうしてそんなことをするのかと言われても――それはまあ、唇が人間の極めて原初的な快楽の源だからだろう。 人間の口と唇は、命を永らえるためにある。 生まれたばかりの赤ん坊は、本能で、誰に教えられたわけでもないのに唇で母親の乳房を吸うことを知っている。 唇から満足を得て安心することで、人間の赤ん坊は人を信頼する心を発達させるんだ。 ――というのは フロイト先生の受け売りだが、人間がキスなる行為を発明し、それを愛情表現の一つとして扱うようになったのは さほど不思議なことではないと思う。 そんなことを、俺は瞬に言うつもりはなかったが。 キスが生存欲や食欲の延長線上にあるものだなんてムードのないことを言ったら、瞬はますますキスを嫌がるようになってしまうかもしれない。 「おかしなことを。何が恐いんだ。おまえは氷なんかじゃなく春の花だろう。おまえはいつも温かい」 キスだけは決して許してくれない瞬を、俺は抱きしめた。 「あ……っ」 唇以外のところなら、瞬は俺にいくらでもキスすることを許してくれた。 キスというより愛撫か。 瞬の身体の中で、俺が唇で触れたことのない場所は唇だけだ。 腕も胸も腹も脚も、瞬の身体の内側にさえ、俺はこの唇で触れたことがある。 だが、唇へのキスだけは、どれほど喘ぎ取り乱している時も、瞬は決して俺に許そうとしなかった。 俺が瞬の唇にキスしようとすると、瞬は俺の身体を押しやって、その行為を避けようとする。 それを2回3回と繰り返されて、やがて俺は瞬の唇に唇で触れることを諦めるようになった――少なくとも、夜 同じベッドにいる時には。 瞬に唇へのキスを求めることは、それまで俺の下で夢見心地で喘いでいた瞬を現実に引き戻し、俺の愛撫に夢中になって熱を帯びていた瞬の心と身体とを冷めさせてしまう行為だったから。 それくらい頑なに、徹底して、瞬は俺とのキスを避けていた。 瞬との交合自体には、俺はいつも満足している。 瞬は外見は穏やかで優しい印象が強いが、その身体と身体の奥に隠している情熱は 春の嵐のように激しくて、それは瞬と身体を重ねるたびに俺を翻弄する。 俺の欲望と瞬の欲望がせめぎ合って――瞬とのセックスはまさに『一戦交える』という表現がふさわしい、実に刺激的な行為だ。 瞬とのセックスに満足しない男はいないだろうと思う。 もちろん、他の男にそんなことを教えてやる親切心を俺は持ち合わせていないし、瞬は、その目には俺の姿しか映っていないとでも言うかのように、いつも俺一人だけを見詰めていてくれたが。 それでも、瞬の唇にキスできないのは、やはり物足りないし、不安でもある。 『キスだの愛撫だの、そんなものは面倒くさい。要は突っ込めればいいんだ』という考えの男が、世の中には相当数いるらしいが、そういう奴等の考えが俺には全く理解できない。 唇で瞬の肌に触れるたび、瞬の肌がほのかに色づき、瞬が小さな喘ぎ声を洩らす。 そういうことは、もちろん瞬の身体から緊張を取り除き、瞬の身体を交合が可能な状態にするために行なう手順の一つなわけだが、それ以上に俺自身のため――俺の欲情を高まらせることに役立つ。 突っ込めればいいなんて言う奴は、よっぽど下手糞で愛撫の効果を自分で実感したことがないか、恋人が冷感症なのか、相手を性欲処理の道具としてしか見ていないか――のいずれかだろう。 あるいは、恋人にキスさせてもらえないという状況に追い込まれたことのない幸運な男だ。 確かに、キスなんかしなくても、性的満足は得られる。 俺も、もしかしたら、瞬があそこまで唇へのキスを嫌がっていなかったら、瞬にキスができないことなど、さほど不安に思ったりしないのかもしれない。 これほど瞬の唇を求めたりもしないのかもしれない。 だが、人間の心という奴は不思議なもので、嫌だと言われれば言われるほど、駄目だと禁じられれば禁じられるほど、その禁忌を犯したくなるようにできている。 春に咲く花の花びらのような瞬の唇は 蜜を含んで甘いのか、それとも、繊細な心を守るための棘を隠し持っているのか――。 俺は、それが知りたくてならなかった。 |