理想郷アルカディア

- I -







カミュは、戦場から帰ってきた その日くらい、ゆったりと身体を休めたかった。
実際にそうするつもりだったのである。都から遠く離れた戦地から、少年期と青年期のほとんどを過ごした城館に帰り、そこで甥の不埒な振舞いを目の当たりにするまでは。

古くからの名門ではあるが、権勢があるとは言い難い男爵家の仮の当主。
それが戦場以外の場におけるカミュの身分だった。
男爵家所縁ゆかりの者は 現国王――正確には、現国王の生母である王太后――との折り合いが悪く、宮廷での出世は望めない。
彼が力を蓄えるには、戦場で誰にも文句のつけようがない手柄を立てる以外に策はなく、それ故、カミュはここ数年 各地の戦場を転戦し、長い休暇をとったこともなかった。

王国軍の将軍の一人として軍を指揮し、幾つもの作戦を成功に導き、その軍功の報いとして王国東部に新しい領地を拝領した上での 久し振りの休暇。
本来の当主である甥の代わりにずっと男爵家をきりもりしてきたが、甥もそろそろ一門の長として自立してもいい年齢になったことであるし、彼に実務を学ばせ 責任感を養わせるためにも、この休暇中に権利の移譲の手配に取りかかろうと、彼は計画していた。
が、彼は、懐かしい我が家に帰館したその日のうちに、自らの計画が画餅に帰したことを知る羽目に陥ってしまったのである。

男爵家は、王城のある都と 王家の夏の離宮のある町の ちょうど中間地点に城館を構えていた。
主領地は国の北部にあるのだが、領地の管理を任せている家従と綿密な連絡を保つことで、直接領地に赴くことなく領地経営を行なっている。
季節は初夏。
2階のバルコニーから、王宮の庭の大仰さには及ばないにしても それなりに趣向を凝らした庭を眺めていたカミュの視界に、急ぎ足で庭を突っ切り薔薇園に入っていく甥の氷河の姿が映った。

氷河は 何か周囲を気にして こそこそしているようにも見えたのだが、カミュは甥のそんな行動に大きな疑念は抱かなかった。
氷河が入っていった薔薇園は、10年ほど前に亡くなった氷河の母が好きだった場所。
氷河が母の思い出に浸るためにそこに足を運んでいるのなら、まもなく成人しようとしている男子が人目をはばかろうとするのも、さほど奇妙なことではない。
氷河の母は美しい女性であったし、父の愛に恵まれていたとは言い難い氷河は、特に母を慕っていた。
まだマザコンを脱していないのかという苦笑いは浮かんだが、同時にカミュは、両親のない甥への憐憫の情にもかられたのである。

ちょうど薔薇の盛りの時季である。
帰館した時には、馬の世話や運び入れる荷物の指示に時間をとられ、氷河とは会話らしい会話ひとつ交わしていなかった。
氷河の母の残した花園で彼の将来を語るのもいいかもしれないと考えて、カミュは彼の部屋を出、久し振りにその薔薇園に足を運んだのである。

どうやら氷河は、いつまで経っても亡き母を忘れることのできない我が身を恥じて こそこそしていたのではなかったらしい。
氷河は、彼の母の愛した薔薇園に一人でこもっていたのではなかった。
薔薇の木の向こうから、囁き声が聞こえてくる。

カミュが知る限り、氷河は機嫌が良い時にも悪い時にも機嫌が悪そうな口調でものを言う男だった。
よく言えば発音明瞭、悪く言えば怒声じみた喋り方をする。
カミュの甥は、“囁く”などという高次の芸ができる人間ではなかったのである。
その氷河が、声をひそめて、誰かと内緒話を交わしている――のだ。

カミュは、甥が小間使いと逢引でもしているのかと思ったのである。
甥を責める気はなく――むしろ、カミュは、母を亡くして泣いていた子供がいつのまにかそういう歳になっていたのかという感慨をすら覚えた。
とはいえ、まさか甥の睦言を盗み聞くわけにもいかない。
あまり硬いことを言うつもりはないが、氷河にはいずれ有力貴族の令嬢を妻に迎えるつもりでいたので、火遊びはほどほどにするよう、あとで注意することにしようと、そんなことを考えながら 彼はその場を立ち去ろうとした。

その彼の足を止めたのは、薔薇の木と花の間から洩れ聞こえてきた、
「叔父上が帰ってきたから、少し慎重になった方がいいかもしれないな」
という氷河の声だった。
そして、
「そんな不安そうな顔をするな、瞬。大丈夫だ、うまくやる」
氷河が口にした、彼の逢引の相手の名前だったのである。

(瞬……?)
その名の持ち主が何者であるのかを思い出すのに、カミュはさほどの労力も時間も必要としなかった。
それは、カミュも全く知らぬではない者の名だったのである。

氷河の母親が存命だった頃、彼女は屋敷の門前に置き去りにされていた捨て子を拾ったことがあった。
まだ満1歳にもなっていないような乳飲み子で、その乳飲み子にいたく同情した氷河の母は、その子供を引きとり、実子の氷河と共に育てた。
氷河の母親が放っておけない気持ちになるのも当然と納得できるほど、その子供は愛くるしい顔立ちをしていたが、確か瞬は男子だったはず――。
甥の逢引の邪魔をするのは不粋と 踵を返しかけていた足をとめ、カミュは事の次第を見極めるため、薔薇の木の陰から甥とその幼馴染みの様子を窺うことになったのである。

氷河は薔薇園の花を一望できる場所に置かれたベンチに腰掛けていた。
その横にいるのは、やはりカミュも見知っている あの瞬――兄弟もおらず、同年代の友人もいなかった氷河がいつも引っ張りまわしていたあの子供――だった。
幼い頃の気弱そうな印象しか覚えていなかったが、しばらく見ないうちに、当然のことながら、瞬は氷河と同じだけ成長していた。
氷河が2歳の時に氷河の母に拾われた捨て子は、今は15、6といったところだろう。
同じ年頃の他の子供と比べても活動的な子供だった氷河のあとを 一生懸命追いかけては転んでいた幼い頃の瞬の姿を、カミュは思い出すともなく思い出したのである。
あの頃から、農民や賤民の子とは思えぬほど愛くるしい顔立ちの子だったが、今は更に少女めいた面差しになっている。
身に着けているものは男子のものだが、カミュはそれでも、瞬を へたな貴族の令嬢より はるかに清楚で美しいと評価せざるを得なかった。

「おまえとのことは、誰にも何も言わせないから」
不安そうに俯いている瞬の顔を上向かせ、氷河が瞬にキスをする。
それは、親族間や友人同士で交わされるようなキスではなかった。
瞬の腰と背にまわされた氷河の腕には強い力がこもっており、二人の身体はぴったりと密着している。
どう見ても、キスだけで済んでいる仲とは思えない親密さだった。






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