最近、夜 瞬の部屋に行っても瞬がいない。
瞬が自らの意思で氷河を失望させるようなことをするはずがないと信じている氷河は、これは叔父の差し金に違いないと決め付けて、カミュの許に直談判に赴いた。
が、氷河の推察は、今度ばかりは的を外したものだったらしい。
カミュは、氷河の訴え――とは名ばかりの、ただの怒声――を聞くと、弁明にも及ばず、むしろ感じ入ったような表情を作って、逆に甥を諭してきた。

「分をわきまえて、おまえを避けているんだろう。頭のいい子のようだったし、おまえのためを思ってのことに違いない。年下の子がそこまで分別を持っているんだぞ。おまえも見習ったらどうだ」
「もう1ヶ月も! 瞬が俺なしでいられるものか!」
甥がどういう意味でそんなことを自信に満ちて断言するのかを察し、カミュは渋い顔になった。

「それはおまえの方だろう。うぬぼれも度が過ぎると滑稽だ」
「瞬をどこに隠したんだ!」
本気で目上の者に掴みかかりかねない勢いの氷河に、カミュが眉をひそめる。
まだろくに世間を知らぬ頃の若い恋の一途と激情――。
身に覚えがないでもないだけに、カミュは甥の不遜を責める気にはなれなかったのである。
しかし、預かり知らぬことには答えようがない。

一向に瞬の行方を白状しない叔父の前で氷河が爆発しかける直前のことだった。
約束のない訪問者の到来を伝えるために、あの執事がカミュの私室に入ってきたのは。
分別はあるが頼りにならない執事の姿が、カミュの目には、この時ばかりは神の御使いにも見えたのである。
彼は、暴走しそうになっている甥を、へたをすると腕力で静めるしかないかもしれないと考え始めていたところだったので。
「なに? 聖十字騎士団の方々? それは、すぐに客間にお通ししろ。失礼のないようにな。ああ、約束などなくても構わん。騎士団の方々は特別だ」

戦に怪我人病人はつきものである。
カミュは、各地の戦場に赴く際には必ず、騎士団に要請して、医療知識に長けた騎士たちに同行してもらっていた。
戦力としての協力を仰ぐことは団則に反することになるので できないのだが、騎士たちは民間人の臆病な医者よりも はるかに戦場での要領を心得ているし、彼等は特に戦いにおける怪我や戦場に多い病の治療に精通していた。
カミュ自身、10代の頃に騎士団から騎士の称号を得ており、団員の一人だったのである。

「お客人方は、聖堂の方で面会したいと希望されております。そして、あの、旦那様ではなく、若様にご用とかで」
「氷河に?」
氷河はまだ騎士の叙任を受けてはいないし、騎士団と何らかの関わりがあるという話も聞いていない。
かといって、まさか栄光ある聖十字騎士団が団員募集などにやってくるはずもない。
訝りながら、カミュは、嫌がる氷河を引っ張って、男爵家の庭に独立して建つ聖堂に赴いたのである。

そこには、甲冑こそつけていないが、鎖帷子の上に騎士団の紋章が入ったサーコートをまとい、剣帯に剣を下げた略装姿の騎士が3人待っていた。
皆、若い。
しかし、3人は3人共が、いっそ小気味がいいほどの緊張感で全身に包んでおり、そして全く隙がなかった。
威勢ばかりがよくて隙だらけの甥とは大違いだと、カミュは内心で長嘆息を洩らすことになったのである。
騎士団長からの親書を預かっているらしい長髪の騎士と、見るからに覇気がみなぎっている人懐こい目をした騎士。
そして、その2人の後ろに控えめに立っている3人目の騎士。――の顔を見て、カミュは目をむいた。
剣と鎖帷子を重たげに身につけている、騎士にしては華奢な肢体をしたその人物の顔を、カミュは見たことがあったのだ。

「このたび、こちらのお屋敷で下働きをさせていただいている瞬が騎士の称号を得まして」
「なに?」
「騎士には仕える主君が必要です。瞬は、こちらの氷河殿を主君と決めているのだそうで、我々は、騎士団を代表して 瞬の叙任と騎士誓約を見届けにまいりました」

「き……騎士? 瞬が?」
騎士団のあれこれになど興味がなく、見知らぬ騎士たちの姿を一瞥しただけで横を向いていた氷河も、3人目の騎士が自分の恋人であることに気付いたらしい。
氷河は目を丸くして、あまり似合っているとは言い難い騎士団の略装をした瞬の姿を、呆然とその視界に映すことになった。

だが、その場で最もこの事態に驚いていたのは、やはりカミュだったろう。
人に逆らうことなどできそうにない、大人しいというより弱々しい印象の強かった召使いが、その腰に剣をき、今、彼の目の前に立っているのだから。

「貴殿の騎士として貴殿に永遠に仕えたいと、瞬は言っている」
「瞬が……?」
「失礼ながら、叙任の作法をご存じか」
長髪の騎士が、氷河の呆けた顔に眉をしかめ、侮るような口調で彼に尋ねてくる。
「も……もちろんだ!」
氷河に本当のことを答えられてしまっては男爵家の名誉に関わる。
長髪の騎士と氷河の間に割って入り、そう断言したのは、氷河ではなくカミュだった。

「叔父上。俺はそんなもの知らんぞ」
「知らんでは済まんのだ! いいから、言われた通りにしろ」
「と言われても」
もたもたと鈍い動作で戸惑うばかりの氷河の背を押して、カミュが甥を祭壇の前に向かわせる。
氷河の前に進み出てきた瞬の姿を感慨深げに見守る振りを装いながら、カミュは小声で氷河に囁いた。
「瞬がおまえに剣を渡し、おまえの前に跪く。おまえはその剣を受け取って、瞬の肩に剣を置け。そっとだぞ。間違っても切りつけるな」

「……」
叔父の言葉が聞こえているのかいないのか、氷河は“振り”ではなく本気で、騎士の略装をした瞬の姿に――その瞳に見入っていた。
瞬が無言で、腰にいていた剣を鞘から抜き取り、その剣を氷河に手渡す。
そうして氷河の前に跪くと、瞬は彼の主君になる人を切なげな眼差しで見上げることをした。
「瞬……俺のために?」
互いに互いの瞳を見詰め合ったまま――瞬に差し出された剣を受け取った氷河は、その剣を瞬の右の肩に置いたのである。

氷河の横で、カミュが、騎士誓約の言葉を小声かつ非情な早口で囁く。
「一度で覚えろ。『謙虚であれ。誠実であれ。礼節を守れ。裏切ることなく、欺くことなく、弱者には常に優しく、強者には常に勇ましく、己の品位を高め、堂々と振舞い、民を守る盾となれ。主の敵を討つ矛となれ。騎士である身を忘れるな』。言い終わったら、剣を瞬の前に差し出す」

氷河は分別はなかったが頭はよかったので、叔父に一度で覚えろと言われた言葉を即座に覚え、跪いている瞬に向かって騎士誓約の言葉を繰り返した。
「謙虚であれ。誠実であれ。礼節を守れ。裏切ることなく、欺くことなく、弱者には常に優しく、強者には常に勇ましく、己の品位を高め、堂々と振舞い、民を守る盾となれ。主の敵を討つ矛となれ。騎士である身を忘れるな」
言い終えると、剣を瞬の前に差し出す。
瞬がその剣に口付けをして、氷河の騎士が誕生した。

「この命が消える時まで、お側にいてお守りします」
「瞬……」
本当のことを言えば、氷河は騎士というものがどういうものなのか、全くわかっていなかったのである。
貴族の子弟は、望めばすぐに、いわゆる名誉団員として騎士の称号を得ることができる――ということくらいしか。
貴族の場合は、その際に国王に忠誠を誓うのが通例になっていたので、氷河はそんな称号を手に入れたいと思ったこともなかった。

だが、平民は――。
この瞬がその手に剣を持つということが あまりに不自然なことだったので、逆に氷河は、瞬が騎士の称号を得るためにどれほどつらい思いをしたのかを、容易に察することができたのである。
それがすべて、彼の我儘な恋人のためなのだ。
氷河は今すぐ瞬をその手で抱きしめたかった。
その事態を恐れたカミュが甥の腕をがっちりと掴んでいたので、氷河はそうすることはできなかったが。

そのカミュは、あまりに思いがけない事態に虚を衝かれたせいとはいえ、自分が瞬と氷河の恋の手助けをしてしまったことに気付いて、今になって慌てていた。
だが、それ以上に。
人の命令に従うことしかできない無力な子供と侮っていた者がとった、この決断と果敢な行動。
彼は、それこそ、胸に剣を突き立てられたような感嘆と衝撃に支配されていたのだ。

「瞬は、騎士候補の者たち同士での試合ではもちろん、先輩騎士たちとの手合わせでも、少女のような姿に似合わぬ見事な戦いを見せてくれました。いたく心を打たれた騎士団長が、特別に馬を下賜されたほどです。いや、さすがはカミュ殿がお世話された者だけある。下働きの者がこのように強いのでは、こちらのお女中や小間使いたちは さぞかし手ごわいのでしょうな」
瞬の叙任と宣誓を確認し終えた騎士が、肩の荷を下ろしたように軽口を叩いてくる。

無理にでも笑い返さなければと、カミュが口許を笑みの形に歪めようとした時、それまでほとんど口をきかずにいたもう一人の騎士が、初めて口を開いた。
「これで瞬は、ここの馬鹿息子と一緒にいても、誰にも文句は言われなくなったわけだ」
「む……」
カミュの口許が、本当の意味で歪む。
つまりは、そういうことなのだ。
騎士は、貴族に準ずる身分。場合によっては貴族より格上と見なされることもある。
生まれも定かではない哀れな捨て子は今、貴族と並び立つ地位と身分を手に入れてしまったのだ。
『平民の分際で、貴族の氷河に近付くな』とは、もはや誰にも言うことはできない。

「カミュ殿も騎士の身、承知されているとは思いますが、騎士には騎士にふさわしい処遇を」
渋い顔になったカミュに、長髪の騎士が釘を刺す。
自らも礼節を守る騎士であることを自負しているカミュは、その“忠告”に従わないわけにはいかなかった。
カミュは、その日のうちに瞬のための広い部屋を用意し、瞬付きの小間使いを一人手配することになった。
「騎士の身分の者に不埒な振舞いはするなよ」
と氷河には厳命を下したのだが、氷河が叔父の命令に従うことがあるなどとは、彼は全く考えていなかった。






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