現国王の暗殺未遂事件が露見したのは、瞬が騎士の称号を得て2ヶ月が過ぎた頃のことだった。 その報を氷河の許に運んできてくれたのは、瞬が騎士になってから何となく友人付き合いが始まっていた星矢と紫龍で、その報に接した時、氷河はまず、『王太后でなく、ただの傀儡にすぎない王を殺したところで何になるのだ』と暗殺者たちの暗愚に呆れてしまったのである。 だが、氷河は、暗殺者たちの暗愚や杜撰に のんきに呆れている場合ではなかったのだ。 彼等は、現国王暗殺ののち、氷河を王として担ぎ出すつもりだったらしい。 そして、彼等の計画の全貌は既に王太后の耳に入り、その話を聞くや、彼女は即座に首都警備についていた兵たちの王宮への召集を命じたという。 国王暗殺に加担した者たちは、他国から嫁いできた女性と彼女の寵臣たちに故国を牛耳られていることに不満を抱いていたらしく――要するに、崇高な理想に基づいて、その計画を実行に移したのではないようだった。 そもそも彼等は、氷河が一国の王にふさわしい人物かどうかを知らないし、氷河もまた彼等を知らない。 カミュも知らないところで、その計画は企てられたらしい。 「だが、知らなかったでは済まされないぞ。王太后は、おまえを処刑する名目ができたと大喜びして兵を招集してるんだから」 「俺は王になんかなりたいとも思っていないぞ」 「おまえの意思なんて関係ないんだよ。王太后は、おまえが生きて、この世に存在してること自体が我慢ならねーんだから」 ざっくばらんな星矢の言葉は、だが、的を射たものだったろう。 彼女はただ憎しみの感情だけに衝き動かされているのだ。 カミュが愛することのできたものを、彼女は愛することができなかった。 それだけのことなのである。 「俺が生きている限り、彼女の憎しみは消えず、内乱の火種がこの国でくすぶり続けるということか」 「だから死んでやるなんて、馬鹿なことは言うなよ。瞬が泣く」 「わかっている……!」 氷河の命を奪う大義名分を得た王太后は、長年培ってきた憎しみの元を消し去るため、迅速に行動を開始することだろう。 彼女に抵抗して兵を挙げれば、内乱になる。 氷河の意思に関係なく、事態は動き始めているのだ。 「兵を挙げるか? カミュ殿が 「俺のために人死にが出るのはごめんだ」 氷河が即答する。 本当に、そんな事態だけは御免被りたいと、氷河は思っていた。 だが、死ぬこともできない。 瞬のために、それはできなかった。 氷河は八方塞がりの状況に追い込まれていた。 が、星矢と紫龍にはそうではなかったらしい。 彼等は氷河の返答を聞くと、即座に氷河の採るべき道を示してきた。 「なら、話は早い。聖域に行け。あそこでは、俗世の身分を捨てなきゃならない。俗世の権力も介入できない。おまえは王になる権利を失うことができて、王太后はおまえに手出しができなくなる。一石二鳥だろう」 「聖域?」 もし聖域に難を逃れることができるというのなら――星矢は『一石二鳥』というが、氷河にはそれは『一石三鳥』のことだった。 氷河は、一度“聖域”という場所を見てみたかったのだ。 貴族も平民もなく、すべての人間が神の前に平等でいられる地上で唯一の場所――を。 それは事実だったのだが、しかし、こんな形でその場所に行くことは、氷河には不本意なことだった。 「逃げるのか」 「争乱の元に消えてもらうのがいちばんだと言っているんだ。死んで片をつけるわけにもいかないのなら、おまえが俗世を捨てるしかないだろう。少なくとも今は」 「しかし、聖域が俺を受け入れてくれるかどうか……」 「あ、それは大丈夫。俺たち、聖十字騎士団の団員ってのは仮の姿でさ。ほんとはアテナの聖闘士なんだ。アテナが、この国で大きな争乱の気配がするって言い出したから、聖域から火消しのために派遣されてきた」 「聖闘士……? おまえらが?」 星矢の言葉を疑うわけではないが、彼の言葉は、氷河には にわかには信じ難いものだった。 神の前での すべての人間の平等――この世界では書物の上でしか語られない その概念を実現している地上で唯一の場所。 言ってみれば、聖域は奇跡の場所なのである。 その聖域で女神に仕える聖闘士という存在は、もっと神々しいものだろうと、氷河は想像していた。 星矢は気のいい友人だが、“聖”の文字を関する戦士としては“俗”の香りが強すぎる。 もし星矢が本当にアテナの聖闘士だというのなら、聖域を統べるアテナという女神は相当に人間的な神であるに違いない――と、氷河は思った。 実際に、そうであるようだった。 「アテナは無意味な戦いが嫌いなんだ。騒ぎを鎮めて、ついでに聖闘士を1人2人拾ってこいって言ってた」 「それが瞬だと、俺たちは思っていたんだが、もしかすると――」 紫龍が、この国の争乱の元に探るような視線を向ける。 その視線の先で、氷河はまだ迷っていた。 聖域に庇護を求める――。 星矢の言う通り、今はそれが最善の策であり、他に良い策も思いつかないのに、氷河は今はそうしたくなかった。 瞬が騎士の称号を得て彼の前に現われた時、氷河は自分の生きる目的を見付けた――見付けたばかりだったのだ。 「俺は王になるつもりはない。だが、この世界を変えたいとは思う。生まれついての身分など関係なく、自由に好きな人に好きだという思いを伝えることのできる世界に――せめて、この国をそういう国にしたい。聖域に逃げ込めば、俺は生き延びられるかもしれないが、それでは世界は変わらない」 「もしかすると、そんな夢みたいなことを真顔で語れるおまえも、聖闘士になる資格を持つ者なのかもしれない――と思うようになった」 話が全く噛み合っていないようで、その実 氷河と紫龍が見詰めているものは同じだった。 氷河と瞬が願うことと、アテナの聖闘士たちが目指しているものは同じものだったのだ。 「世界を変えるなんてことは、容易にできることじゃない。おまえ一人でできることでもない。変革を望むすべての人々が心を一つにして協力し合い、希望を捨てずに戦い続けるしかないんだ。そうすることで、世界は少しずつ変わっていく」 「俺がこの国を出て聖域に行けば、それが叶うのか」 「それがどういうことなのかがわかる。希望を持ち続けること、諦めないこと、それが世界を変えるほどの力になること――そういうことが実感できて、信じられるようになるだろう。信じられるということは、力を生み育てることでもある。そのためにも、まずはおまえの生命の安全の確保、そして、おまえ自身が強くなる必要がある。世界の変革はそれからだ」 「大丈夫。おまえが諦めない限り、おまえの願いは必ず叶う。俺が保証する。だから、今は聖域に行こうぜ」 『おまえの保証を保証してくれるものは何なのだ』と、星矢に問いかけようとして、氷河はそうすることをやめた。 問う前に、答えがわかったのだ。 “希望”の実現を保証するもの。 それは“希望”そのものなのだ――と。 「しかし、俺がいなくなったら、この家は――男爵家はどうでもいいが、叔父上が――」 瞬以外に欲しいものなどないと豪語し、自分でもそうだと信じてきた。 だが、そうではなかったことに、氷河は今になって気付いたのである。 氷河は、あの頭の硬い叔父にも、その信念と不器用な愛情を曲げずに生き続けてほしかったし、王太后に睨まれている家と知りつつ男爵家に仕えてくれていた者たちにも、この国のすべての民にも、せめて無意味な争いのために命を中断させられるようなことにはなってほしくなかった。 自分の命と希望を守ることが、他の者を苦しめることになるのなら、それはやはり卑怯な逃避だと思う――そう思えて仕方がないのだ。 この土壇場に来て新たな迷いに囚われ始めた氷河の前に、彼の叔父が現われる。 彼は軍装していた。 そして彼は、その場に氷河の姿を認めると、僅かに苛立ったように眉をひそめた。 「まだいたのか。早くここを出ろ。王太后は、女とも思えない果断を見せてくれているぞ。この館を包囲するためにかき集めた兵たちが、既に王宮を出たそうだ。たった今、友人の将軍からも知らせがきた。氷河を逃がせと。私とは戦いたくないから、できれば私にも逃げてほしいそうだ。歴戦の勇者たちも王太后の命令に背くことはできなかったらしい。おまえと瞬は、早く この館を出ろ」 「叔父上……」 星矢たちはどうやら、氷河より先に彼の叔父に現況を伝えていたものらしい。 そして、カミュはこの場に残るつもりでいるようだった。 「誰が攻めてきても、この国の軍の将軍たちはみな私の友人だ。うまく収めてみせる」 カミュは、『撃退してみせる』とも『勝ってみせる』とも言わなかった。 無駄な血を流すつもりはないらしい。 「俺たちも残るから、大丈夫。知ってるか。俺は一瞬で この城を瓦礫の山にするくらいの力を持ってるんだぜ。寄せ手が大人しく退いてなかったら、聖闘士の力を見せつけてやって、奴等がびっくりしてる間に、さっさととんずらするさ」 「私のことは心配するな。どうにもならなくなったら、私も聖域に行く。私ほどの男なら、すぐにも聖闘士になれるだろう」 らしくもなく叔父に心配そうな眼差しを向けてくる甥を見やり、カミュは目を細めて ひっそりと微笑した。 「いいな……。神の前にすべての人間が平等な世界。もっと早く、私も行けばよかった」 『ナターシャを連れて』 カミュが言葉にはせずに眼差しで語る言葉。 今となっては叶わぬカミュの夢が、氷河に決断させた。 生きて、この命と恋を貫くことが、母の願いで、叔父の希望なのだ。 「使用人たちは、みんな逃がした。馬の準備もできたから、氷河、早く!」 氷河が守りたい人、氷河を永遠に守ると誓ってくれた人が、氷河に脱出を促してくる。 瞬も、氷河より先に星矢たちから事態に猶予のないことを知らされていたらしい。 呆れたことにアテナの聖闘士たちは周囲の根回しをすべて済ませてから、この争乱の元に決断を促しにきたものらしかった。 息せき切って部屋に飛び込んできた瞬は、既に旅装を整えていた。 「馬の蹄の音が聞こえる。急げ。聖域では先輩風吹かしてやるから、覚悟しとけよ」 「氷河、急いで!」 「あ……ああ」 ここにいる者たちは皆、生き抜くことの価値と、諦めないことの力を信じている者たちばかりだった。 信じる力を氷河に与えてくれる者たち――。 だから世界はいつか変わるだろう。 氷河は、今はそう信じることができた。 「じゃあ、聖域で」 氷河が仲間たちに再会を約す言葉を告げて、瞬の手をとる。 父に見捨てられたと思った時も、この世界には自分を憎んでいる者たちであふれているのだと感じた時も、母を亡くした時も、いつも氷河を力づけ慰めてくれた瞬の小さな手。 氷河の希望は、いつも彼の手の中にあった。 これからも、それは失われない。 そう信じられることが真の幸福なのだという思いを噛みしめて、氷河は瞬の瞳を見詰めたのである。 自然に、微笑が浮かんできた。 Fin.
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