鍵盤のエクスタシー






『TS』というタイトルの、それはどうやらピアノ演奏のCDのようだった。
ジャケットに使われているのは、ステージに置かれたピアノの写真。
閉じられた屋根蓋の上に、一輪の白いバラの蕾が置かれている。
それは、顔を露出したがるピアニストが多い昨今、『今どき新鮮』と評したくなるほどにシンプルで わかりやすいジャケット写真だった。

沙織がなぜそれを瞬のところに持ってきたのか、その理由が瞬にはよくわからなかったのである。
瞬は特にクラシックに興味があるわけではなく、ましてや造詣が深いわけでもない。
しかし、沙織は、それを手ずから瞬に渡し、
「これを聴いてみてくれる? ぜひあなたの・・・・感想が聞きたいの」
と言ってきたのだ。

「僕……ですか?」
アテナの要請を断るわけにもいかず、かといって彼女の期待に応えられる自信もなかった瞬は、非常に戸惑いながら、そのCDを受け取ったのである。
CDの裏ジャケットには、ベートーヴェン・モーツァルト等々、誰でも知っているクラシックの大御所たちの名前が記されており、瞬は、その錚々たるメンバーの名前に尻込みしないわけにはいかなかった。

「クラシックのピアノ演奏なんて――聴いても、僕には上手なのか下手なのかすらわからないと思いますよ」
「大丈夫よ。クラシックに興味のない人たちにも売れているCDだから。私は、そういう人たちがどういう意図でこのCDを買っているのかを知りたいの。ほんとのことを言うと、私はなぜこれが売れているのかが全くわからないでいるのよね。評論家の批評も散々だし」
「そうなんですか……?」
クラシックに興味のない者たちに受け入れられているというのなら、それはいわゆる素人受けする内容だからなのではないかと瞬は思った。
そう思った瞬自身にも、“素人受けするクラシック”がどんなものなのかは、皆目わからなかったのではあるが。
沙織の言う『クラシックに興味のない人』が“ズブの素人”ではなく“半可通”と呼ばれるような人々を指しているのだとしたら、そういう種類の者たちは評論家の意見を重視するだろうとも、瞬は思った。

「ピアニストの名前がないようですけど、有名な方の弾いたものなんですか?」
「いいえ、無名の新人よ。ネームバリューもないし、アルバム名をとって『TS』と呼ばれているわ」
「はあ……」
アルバム名を通り名として用いられているというのなら、『TS』というのはピアニストのイニシャルでもないのだろう。
要するに、それは、対外的に正体を隠した謎のピアニストが演奏した曲を収録したCDであるようだった。

ピアニストの正体はどうあれ、沙織は素人の聴き方で構わないと言っている。
沙織は それこそ素人の意見を欲しているのだろうと自身を納得させた瞬は、ともかく そのCDを持って視聴覚室に行き、プレイヤーにかけてみたのである。
そうして、そのCDに収録されたピアノ演奏を聴いた瞬は、尋常でない衝撃を受けることになったのだった。






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