それでも、彼に会いたいという、瞬の気持ちは消えなかった。 なぜこれほど 彼に直接会いたいと思うのかは、自分でもわからない。 だが、どうしても会わなければならないと思ってしまうのだ。 “彼”がどんな人間でも構わない。 子供でも老人でも醜くても美しくても構わないから、とにかく会いたい。 どんな眼差しの持ち主なのか、どんな声で話し、どんな表情をたたえているのか。 それらのことを知ることができたなら、乱れ騒ぐこの心も少しは静まってくれるかもしれない。 沙織に『NO』と言われてしまったら、他に自分の望みを叶える術のないことはわかっていたのだが、それでも瞬の心は彼に会いたいという望みを諦めてくれなかった。 無駄と知りつつ、万に一つの可能性を期待して、瞬は仲間たちに自身の苦衷を訴え、相談してみたのである。 「どうにかして彼に会う方法はないかな……。会えないと、僕、どうにかなっちゃいそうなんだ」 真剣な面持ちで相談してくる瞬に、星矢は虚を衝かれたような顔になった。 そして、すぐに その顔を呆れたように歪める。 「会えないとどうにかなるなんて、おまえ、そのピアニストに恋でもしてるみたいだぞ」 「恋……?」 星矢が持ち出した単語に、今度は瞬が虚を衝かれたような思いを抱くことになったのである。 瞬は、そんなことを考えてもいなかった。 ピアノの演奏しか知らない相手。 瞬は彼の名前も年齢も人柄も姿も何も知らなかった。 そんな相手に恋などできるはずがないではないか。 だが、そう思う瞬自身も、確かに 今の自分の心を表わす適当な言葉を他に知らなかった。 「……そうなのかもしれない」 「そうなのかもしれない――って、おまえ……。あれはただのピアノの音だろ」 星矢が理解不能と言うように肩をすくめ、馬鹿なことを言い出した仲間を見やる。 だが、瞬には、星矢のその感覚こそが理解できないものだった。 「ただの音 !? あれは言葉より雄弁な言葉だよ! どうしてわからないの!」 「わかんねーよ……」 いったい“ただのピアノの音”になぜ瞬がそこまで入れ込むのかが どうにも得心できなかったので、星矢も一応、その演奏を聴いてみたのである。 『普通のクラシックとは違って面白い』とは思ったが、その演奏の何が瞬をそこまで夢中にさせるのかは全く理解できない――というのが、その“ピアノの音”を聴いた星矢の正直な感想だった。 星矢には、本当に、その“音”に対する瞬の執着と熱狂の訳がわからなかったのである。 瞬は平生はもっと冷静な人間で、暴走する天馬座の聖闘士や白鳥座の聖闘士を制するのが、仲間内における瞬の役どころだった。 その瞬が、たかが1枚のCDのせいでなぜこれほど――仲間に反抗的に食ってかかるほど――取り乱しているのか。 星矢には本当に訳がわからなかった。 「あのさ、瞬。それ、普通に市販されて、かなり売れてるCDなんだろ? 俺はどうとも思わなかったけど、それを聴いた大抵の奴等はあのピアノ演奏に何らかの感動を覚えてるんだろ? おまえだけじゃないんだ。今のおまえはまるで、アイドルのコンサートに行って、アイドル歌手が自分をずっと見詰めてくれてたとか思い込んで興奮してる勘違い野郎だぞ。そういう奴が道を間違うとストーカーなんてものになっちまうんだ」 「……」 星矢に指摘されたことに、瞬は激しい衝撃を受けた。 勘違い野郎のストーカーのと言われたことに対して、ではない。 このピアノの奏でる“言葉”が自分一人だけに向けられたものではないという事実に、瞬は尋常でない衝撃を受けることになってしまったのである。 胸が焼けつくように痛い。 自分が本当にあの演奏に“恋”をしているのなら、この胸の痛みは嫉妬の感情に他ならないと、瞬は思った。 だが、そんなことがありえるだろうか。 これまで瞬は、そういう感情とは全く無縁な人間だった。 氷河が彼の母親や師を慕い続けている様を見て、優しい気持ちになったことはあっても、妬んだことはない。 氷河の側に少女が立っている時、寂しい気持ちになったことはあっても、その少女に妬心を抱いたことはない。 ――だというのに。 初めて経験する その抑え切れない思いは瞬を混乱させ、そして、瞬の目の奥と喉の奥を熱くした。 「うん、そうだね。ごめんなさい……」 “彼”と二人きりになることができないのなら、彼の音と共にいるしかない。 瞬は肩を落として、仲間たちのいるラウンジをあとにした。 落胆しているのが嫌でも見てとれる 力ない瞬の後ろ姿を見送ってから、星矢は彼らしくない長嘆息を洩らしたのである。 その嘆息には、内に秘めている力は異常なほど強大でも、青銅聖闘士の中で最も常識を備えていると思われていたあの瞬が、こんな病に罹るなんて――という驚きの念が含まれていた。 その驚きは、やがて、自分にはこの現状を打開できないのだという苛立ちに変化し、その苛立ちは、即行で白鳥座の聖闘士に向けられることになったのである。 「氷河、おまえがさっさと瞬をモノにしちまわないから、瞬があんな馬鹿げたビョーキに罹っちまうんだぞ! 早いとこ、恋の告白でも何でもして、瞬の目を覚まさせてやれよ!」 「しかし、今の瞬は――」 今の瞬は、他人の言葉など聞く耳を持っていないように見える。 実はそれは星矢も同じで、彼は氷河の呟きが聞こえる耳を持っていなかった。 聞きたいことしか聞かず、見たいものしか見ず、自分の考えだけを一直線に信じ抜くことができるから、彼は“希望の聖闘士”でいられるのである。 そんな星矢はもちろん、自分の言いたいこと(だけ)を言うのだ。 「おまえ、ピアノの音なんかに負けて悔しくねーのかよ! おまえは言葉を使うことができて、どっかのピアニストと違って、手を伸ばせば届くくらい瞬の近くにいて、目もあって、手もあって、やりたい盛りのナニも持ってんだぞ! 使えよ、それを!」 「星矢、おまえは どういうけしかけ方をしているんだ」 大筋では同意だったが、あまり品があるとは言い難い星矢の煽りに、紫龍はさすがに渋い顔になった。 しかし、氷河が、言葉でも、眼差しでも、彼の持てるものを駆使して対処する以外、今の瞬の病気を治癒する方法はないだろうと思うのは、紫龍も星矢と同じだったのである。 というより、紫龍は、この異常事態を打破する方策を、他に思いつかなかったのだ。 にも関わらず、肝心の氷河はいつになく大人しく、まるで聞き分けのいい子供のように瞬が恋しているものに憤っている気配すら見せない。 もし氷河がピアノの音などに盛大に焼きもちを焼くことになっていたら、もちろん紫龍は氷河をなだめる側にまわっていただろうが、それにしても氷河のこの“聞き分けのよさ”は、彼の普段の性向を知る者たちには異様なものに思えたのである。 その日、瞬は昼食時になってもダイニングルームに姿を現わさなかった。 嫌な予感がした星矢が瞬の部屋に仲間の様子を見に行くと、瞬は着衣のままで自室のベッドに力なく横になっていた。 室内には、あの独創的に過ぎるピアノ演奏が流れている。 食欲がないという瞬に無理強いもならず、星矢は瞬の部屋を退散するしかなかったのだが、その音への唯一の対抗馬である氷河がいつもの攻撃性を見せない分、星矢の苛立ちは大きくなるばかりだった。 |