優しさと深い後悔の曲に変えられてしまった『月光』全3楽章を、一度もつかえることなく弾き終え 鍵盤から指を離すと、氷河は溜め息をひとつ洩らした。 瞬の顔を見るのを恐れているように、そのまま身体を向きを変えようともしない。 そんな氷河に代わって事の経緯の説明を始めたのは、氷河があのCDを出すに至った事情を知るもう一人の人物だった。 「2ヶ月前……いえ、もう3ヶ月になるかしら。あの日はピアノの調律師がくることになっていたの。なのに、よりにもよってこの部屋の空調の調子が悪くて、それで氷河に室内の湿度調節をしてもらっていたのよね」 「……」 それは、正義の戦いのために使うべき氷雪の聖闘士の小宇宙を使って室温を下げ湿度を調節していた――ということだろうか。 『立っている者は聖闘士でも使う』を旨とするアテナらしい所業といえばいえた。 「で、予定通りに調律が終わって、調子を見るために、私はピアノを弾いてみたの。そう、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番よ。第3楽章冒頭のパッセージがどうしても上手く弾けなくて、何度も失敗して――。音がもつれるたびに、氷河が嫌そうな顔をするのよね。私も自分の指に苛立ってたから、『光速拳を見切ったり撃ったりできるあなたなら、さぞかし華麗に弾きこなせるんでしょうね』と、つい嫌味を言って挑発しちゃって」 「そうしたら、氷河は、本当に華麗に弾きこなしてしまった――というわけですか」 そう尋ねる紫龍自身、そんなことがありえるはずがないと思っているような顔つきだった。 だが、そうだったのだろうと思わざるを得ない、この現状。 紫龍の声には、非常に複雑なジレンマが含まれていた。 沙織が縦に首を振り、その後、横に首を振る。 「簡単に弾きこなしたわ。でも、ちっとも華麗じゃなかった。氷河は、楽譜に記されている音符が指示するキーに適当な指を置いているだけだった。でもねえ、私としては腹が立ったのよ。私は子供の頃から、ほぼ毎日ピアノを弾き続けて――ずっと練習を続けてきた。その私が弾けなくて苦労していた曲を、たまたま光速拳を見切れる目と指を持っているっていうだけの聖闘士に、簡単に弾きこなされてしまったんですもの」 「たまたま簡単に……って」 その目と指を手に入れるために、彼女の聖闘士たちがどれほど苦しい修行をしてきたのか、沙織はわかっているのだろうか。 沙織はわかった上で言っているのだと思い直すことができたから、星矢は かろうじて怒りを露わにすることをせずに済んだ。 「それで、私は、『楽譜にある音符の通りに音を響かせているじゃ何にもならない。そこに心がなければ、それは演奏とは言わない』って言ってやったの。ああ、多分、あの時、氷河は氷河で、湿度調節機にさせられて苛立ってたのよね。私の挑発に乗ってきて――」 「『心を込める』ということがどういうことなのか、俺にはわからなかった。だが、俺の心が最も活発に活動するのは、おまえを思っている時だから、おまえを思って弾いた」 やっと覚悟を決めることができたのか、氷河が瞬の方に顔を向け、低い声で告げる。 氷河の――正しくは沙織の――ピアノの脇に半分自失したように立ち尽くしていた瞬は、彼の告白にどう反応すべきなのかを迷う風情で、氷河を見詰め返していた。 「それが斬新で面白くて。私も神のはしくれ、潔く敗北を認めて、その場でデモテープを作ったわけ。それをグラード・エンターティンメントの企画会議にかけてみたら、どういうわけか冗談のつもりだった企画が通っちゃって、一週間後にはグラード・エンターティンメントの録音スタジオでレコーディング完了」 「そして、その冗談が売れてしまった――というわけですか? いったいこの世の中はどうなっているんだ」 「そういうの、瓢箪から駒って言うんだろ? マトモなピアニストの立場がねーよな、ほんと」 沙織と紫龍と星矢が呼応し合うように事態の説明とそれに対する感懐を口にしだしたのは、彼等に瞬の反応の予測がつかなかったからだったろう。 恋煩いの相手の正体がわかって、瞬が素直にその事実を喜んでくれるなら問題はない。 が、味わわなくてもいい苦痛を味わわされたことに瞬が憤るようなことになれば、それでなくても込み入った この事態が収拾不可能の様相を呈することにもなりかねない。 彼等は、そうなることを避けようとしたのだ。 「氷河って、それまで一度もマトモにピアノを弾いたことがなかったんですって。楽譜も、音符がどこに書かれていれば、どの鍵盤の音を要求しているのかってことくらいしかわかっていなくて、だから、あんな滅茶苦茶な弾き方になってしまったようなの。とはいえ、聖闘士の光速拳を見切る運動神経と体力で、技術だけは確か。解釈は一般的ではないけど、心だけはたっぷりこもっていて、だから演奏と言っていいのじゃないかと思ったのよね」 あまりのことに困惑し呆然としているらしい瞬の瞳。 その瞬が次に見せる表情が怒りではなく微笑であることを哀願するように、沙織が、かなり無理のある笑顔を瞬に向ける。 それから彼女は、その視線を氷河の上に転じ、白鳥座の聖闘士に『さっさと瞬に謝れ』と無言の圧力を加えた。 アテナに脅迫じみた指図を受けなくても、氷河はそうしていただろう。 氷河自身、自分の作った“音”がこんな事態を招くことになろうとは、考えてもいなかった――彼には悪意も作為もなかった――のだ。 「おまえのためだけに弾いた曲だ、あれは全部。言わずにいたのは悪かった。だが、自分の心をプレイヤーを通して客観的に聴いてみたら、その、何だ。恥ずかしかったんだ。俺はこれほどおまえのことが好きなのかと――。おまえに笑われてしまうんじゃないかと、心配にもなった」 「い……一応 私は、さっさと瞬に白状した方がいいと何度も氷河に忠告したのよ。なのに氷河ったら、彼らしくなく物怖じして――。でも、あれは本当に、氷河が瞬だけのために弾いたものなの。アルバムタイトルの『TS』は『 To Shun 』の略。それがとても斬新で刺激的で、たまたま万人受けしただけ。大衆というものはいつも刺激を求めているものだから」 「だから、瞬だけがわかって、瞬だけが熱を出す羽目になったというわけか」 「なーんだ。わかってみれば不思議でも何でもないことじゃん」 「呪いの一種ではあるかもしれないぞ」 「氷河の呪いか。それがわかるということは、まあ、瞬も氷河と波長が合いすぎてたんだな。うん、そういうことだよ。な、瞬」 いつまでも無反応でいる瞬に、彼の仲間たちと女神の口調は、徐々に必死の様相を帯びてくる。 しかし、彼等の焦慮と懸念は、ほとんど意味のないものだった。 瞬は最初から、氷河の隠し事に腹を立ててなどいなかったのだ。 瞬に言葉と表情を作ることをためらわせていたのは、他でもない瞬自身の瞬自身に対する困惑だった。 瞬が、僅かに目を伏せて、やっと口を開く。 少しどもりながら、瞬は小さな声で、自身の戸惑いを仲間たちに告白した。 「だ……だって、僕、氷河以外のものが あんなに僕の気持ちを揺さぶることがあるなんて、信じられなくて、びっくりして、それで――。僕が氷河を好きだと思ってた気持ちは、もしかしたら、その……単なる錯覚だったんじゃなかったのか……って……。そんなの嫌で、恐くて、だって自分の気持ちが自分でわからないなんて……本当に恐かった――」 「まあ、自分の心なんて、誰もが自分ひとりでわかったような気になっているだけのものなのかもしれないしな」 隠し立てをしていた氷河を責める気配のない瞬の言葉に内心で大いに安堵した紫龍が、分別顔で瞬を慰撫する。 「わかってみたら、なんてことない落ちじゃん。名探偵もがっくりだぜ。安心したら腹減った。おやつ食おうぜ、おやつ」 「そうね。瞬もお茶くらいは飲めるかしら」 自分が恋していた相手は、最初から一人だけだった。 そう思えることが、瞬の心身を落ち着かせたらしい。 星矢と沙織の誘いに、瞬は泣きそうな笑顔で頷いた。 |