reason and affections






俗に、人間たちの世界では『悪に強きは善にも強し』というそうだ。
あるいは、その逆で、『善に強きは悪にも強し』とも。
『強い』ということは、人に影響されない確固たる意思を持ち、自分の望みを実現するだけの企画力と行動力があるということ。
つまり、意思の力が強固で、頭脳も秀でているということだ。
『悪を為したい』『善を為したい』と思っているだけの腑抜けではないということだろう。
この二つの言葉は、要するに、『強い者は強い』という事実を表しているにすぎない。

では、強さとは何から生まれるものか。
それは『清らかさ』からだと、余は思う。
清らかな者には迷いがない。
一途に自分の信じる『善』に邁進する。
その者が信じる『善』が、他の者にとっては『悪』であるかもしれないなどということは考えずに。
純粋な善と純粋な悪は、そういう意味では同義語だといえる。
不純であることが自然な人の世では、人はそういった人間の純粋さに恐れをなし迷惑に思うという点においても、その二つのものは同じものだと言えるだろう。

そう、純粋な者は強い。
生まれたばかりの人間の赤子が、己れの持てる力の限り、喉も裂けよと言わんばかりの勢いで泣くような激しさがある。
そうすることで喉が張り裂け己れの生が失われる可能性など、無垢な(と言われている)赤子は考えもしない。

人の世では、赤子は無垢で罪なきものと認識されているそうだが、事実はそうではないだろう。
生まれたばかりの人間の赤子は自己と他者という概念がなく、自他の区別ができぬから、自分が飢えていることも己れの身体の不都合も、すべて自分のせいだと思い込む。
悪いのは自分。
自分が『悪』だから、自分はこんなにも苦しいのだと、人間の赤子は思うのだ。
つまり、罪や悪の原因を他者に転嫁することのできない赤子こそが、絶対悪を知る者だということになる。
我が身に起こる不幸も不運もすべては己れのせいであり、己れこそがすべての悪の原因だと信じる者。
絶対の悪を知っているからこそ、赤子は『清らか』なのだ。
自分は悪ではないと信じようとする大人に比すれば、はるかに。

だが、そのように清らかな赤子も、人の世を知るうちに その身に汚れを備え始め、それでいながら――だからこそ――己れの中の悪を認めようとしなくなる。
そうして、赤子は人間になってしまうのだ。
余の嫌いな、汚れに満ちたあの不愉快な生き物に。


余は、余が為そうとしていることを『悪』とは思っていない。
余が哀れな人間たちに与えようとしているものは、完全に清浄な世界だ。
人間たちが自らの醜さを自覚し、自らの存在や生に価値がないことを自覚できるだけの賢明さを、余は人間たちに与えてやりたいと思っているのだ。
その賢明を身につけることができれば、人間たちは純粋な絶望に至ることができるようになるだろう。

生きている者にとって、絶望は『悪』であるらしい。
それは生きることを否定する感情だから。
そういう意味でなら、余の為そうとしていることは悪と言っていいものなのかもしれない。
だが、その結果実現する 完全に清浄な世界は、希望であり、善であるだろう。

Etエト inイン Arcadiaアルカディア egoエゴ ――理想郷にも我(死)はあり。
この銘文は、人の世では、牧歌的な理想郷アルカディアも死からの避難所ではないということを表わしたものと解釈されているそうだが、余はその解釈は根本から誤っていると思う。
理想郷は死こそが作り出すものだ。
人類の死、人類の滅亡こそが、この世界を完璧な理想郷に作り変えるのだ。

この見解に反論できる人間がいるだろうか。
いるとしたら、その者は、己れの罪を自覚できていない愚か者であるに違いない。
家族愛を奉じて 他人を憎しみ軽んじ、祖国愛を奉じて 他国の者を迫害し、人類愛を奉じて 他の生き物を排斥し、あるいは、自分たちの身勝手で命を奪う人間たち。
綺麗事でしかない『愛』というもので世界を汚している者たちは、己れの口にする愛の醜さを自覚し、無になるべきなのだ。






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