完全に美しい、完全に清浄な世界の実現――を、余は確信していた。
その確信を覆したのは、白鳥座の聖闘士だった。
あの者のたった一言。
それは、あのカノンとかいう聖闘士の言より理のない言葉だった。
理どころか!
白鳥座の聖闘士――キグナス――は、何も考えていなかった――おそらく。
人間の罪や汚れも、人の世の存続の是非も、余が善か悪か、アテナが善か悪かということすら考えず、人間たちを救いたいという願いも、自らの生を生き続けたいという欲望すら、あの者は抱いていなかった。
本当に、何も考えていなかった。
呆れるほど。

あの者は、余の瞬に、『アテナの聖闘士に戻ってくれ』とも『人の世を滅ぼすのをやめてくれ』とも言わなかった。
ジュデッカにやってきたあの者は、余に心と身体を支配されている瞬に向かって、
「瞬、俺はおまえが好きだ」
と言った。
それだけだ。
それしか言わなかった。

何を、この者は考えているのだと、余は大きな疑いを抱いた。
何も考えていないから――人間たちのこと、人の世のこと、あらゆることの善悪、生死、希望も絶望も――何も考えていないからこそ、キグナスは、己れが身を置く世界の滅亡を間近に控えた 今この時に、そんな無意味な言葉を吐くのだと、まもなく余は気付いたのだが。
いや、その言葉に理はなくても、意味はあったのかもしれない。
でなければ、たったそれだけの言葉に、瞬があれほど激しく動揺することはなかったはずだから。
だが、どんな意味があったのだ?

瞬は、すべての人間に絶望していた――人間は世界を汚すだけの愚かな存在でしかないことを知り、認めて。
人としての自分の生にも絶望していた――アテナの聖闘士として戦い続けてきた己れもまた、そんな愚かな人間の一人にすぎなかったことを知り、認めて。

人間への失望、人の世への絶望。
人間はもはや世界を美しいものに戻す術を持ってはいない。
その死によってしか。
それは絶対の真理であり、疑いようのない現実だ。
瞬の心中に根を張った人間に対する絶望。
それは何にも増して強大な力のはずだったのに、その真実が、確信が、たった一人の人間の『好きだ』という言葉に激しく揺さぶられる。
――いったいなぜ。
余は、不吉な予感に囚われた。

人は、人類という全体の中の一人として生きているわけではない。
一人一人が生きて、人類という集団を構成している。
その二つは同じことのようで、その実、全く異なる事柄だ。
その二つの事柄においては、そこに存在する心の数が違うのだ。
前者のありようでは、全体が変わらなければ個々人は変化することができない。
翻って、後者のあり様では、全体が変化することがなくても、一人の人間(の心)だけが変わるということが可能になる。

一人一人の人間がそれぞれの心を持っている世界では、その世界の中にあるたった一つの心が絶望という病に犯され、その者の絶望が人類全体に癌細胞のように広がっていくという現象が起こり得る。
その現象が可能だということは――つまり、たった一つの心が震え、希望を見付け、その希望が癌細胞のように人類全体に広がっていくこともまた可能だということだ。

瞬の小さなたった一つの心が、今まさに、希望という病に取りつかれた――そう、余は感じた。
いったい何なのだ。
この『好き』という言葉は。
その意味するところは。
この感情、この影響力は。

そのたった一言のせいで、ほとんど余に同調しかけていた瞬の心が、余から離れていく。
瞬は、キグナスに生きていてほしいと望み、自身も生きていたいと願い始めた。
瞬の中で、私の意思の力が殺がれていく。
誰にも―― 一人の人間であるならば誰一人、反論の根拠を持たないはずの余の理に、瞬は賛同することを拒み始めた。
『氷河に生きていてほしい』という瞬の恐ろしく強い意思が、余の心と不協和音を奏で始めた――。

瞬は全く冷静でない。
理性的でもない。
世界全体を、人類全体を俯瞰できていない。
冷静かつ客観的に考えたなら、人類が滅亡することが世界のためになることは自明の理だというのに、瞬はその理の範疇にキグナスを置くことを激しく拒絶する。

なぜだ。
この男とて、愚かな人間たちの中の一人にすぎない。
身に汚れを帯び、我欲に支配され、世界よりも己れの心に重きを置く、我儘な男。
この男に、他の人間たちと違うところがあるとすれば、この男がそなた・・・を好きで、そなた・・・の善を信じ、そなた・・・に生きていてほしいと望んでいることだけではないか。

(でも、それだけのことが、僕に希望をくれるの……!)
希望? それは何だ?
どこに存在する。
どこから生まれてくる。
人は皆、愚かだ。
汚れに満ちている。
これまでに幾度となく、その汚れが、愚かさが、そなたを傷付けてきたのだろう。
そなたは、あの苦しみの中に再び戻りたいというのか、瞬!

(戻りたいよ! 僕は、氷河のいるところに、仲間たちのところに戻るんだ……!)
瞬の全身が余への反抗心で満ちてくる。
余は、もはや、それ以上瞬の心身のうちに留まることは不可能だった。


たった一言――。
白鳥座の聖闘士の、“理”どころか是非もない一言。
それが、余を、瞬の中から追い出した。
余は、瞬の拒絶の訳が理解できず、呆然と、抱き合う二人を瞬の外・・・から・・見おろすことになった。

何なのだ、これは。
この強大な力――熱、欲望、意思。
アテナの聖闘士とはいえ、キグナスはただの人間のはずだ。
ただの人間の『好きだ』という一言が、これほど強い力を生むことがあるというのか?
人が人を好きになるということに、人が人の好意を知らされるということに、いったいどんな意味があるというのだ。
その事実は、人の心に何を生む? ――瞬の心に何を生んだ?
己れの存在意義の自覚、自分は生きていてもいいのだという許し、あるいは希望か?
しかし、これほどまでに汚れきった人の世で、そんなにも小さな、あまりにも個人的な希望が、いったい何になるというのだ。

『おまえが好きだ』
そう言われただけのことで、余に従順で賢明だった瞬はもなぜここまで変わってしまったのだ……!






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