「アテナ。いったいこれは――」
気付くと、アテナの聖闘士たちがその場にやってきていた。
アテナの小宇宙と氷河の小宇宙。更に、彼等の知らない見知らぬ小宇宙――のようなもの。
聖戦を間近に感じて緊張していた彼等は、アテナ神殿でいったい何が起きているのかと、血相を変えてこの場に駆けつけてきたらしい。
そこで、アテナの聖闘士の一人と、ハーデスの魂の器に選ばれた者の抱擁シーンを見ることになってしまったのだから、彼等の当惑は当然のことだったろう。

その場に立ち上がったアテナは、神殿の広間に集まった彼女の聖闘士たちをひと渡り見まわした。
そうしてから、一度大きく息を吸い、アテナは、
「戦いましょう。聖戦回避の可能性は既になくなったと思ってちょうだい」
と、よく響く声で、彼女の聖闘士たちに告げた。

「全く合理的でない決断だと、私自身思っています。ですが――」
アテナは、彼女の足元で瞬を抱きしめている氷河に一度視線を落とし、それから再度顔をあげた。
「今この場で、ハーデスの依り代である瞬の命を絶ち、私たちの時代でハーデスの降臨を阻止することができても、それはその場しのぎでしかありません。ただ、先の時代につけをまわすだけ。それが可能なのかどうかはわかりませんが、私たちは私たちが持てる限りの力をもってハーデスと戦い、ハーデスを滅ぼすか――せめて次の時代の者たちの犠牲が少しでも小さくなるように、ハーデスの力を殺いでおきたい」

女神の言葉に、彼女の聖闘士たちの表情が一様に明るく引き締まる。
もしかしたら、闘士である彼等は、望んではならぬことと知りつつ、最初からそうなることを望んでしまっていたのかもしれなかった。
それが幸運なのか不運なのか――彼等は、戦うためにこの場に在る者たちなのだ。

「私の決定に異議のある者は、瞬の命を奪いなさい。ただし、氷河がそれを許すとは思えないから、そのためには、まず氷河を倒さなければならなくなると思うけど」
無邪気に挑発するようなアテナの言葉に、黄金聖闘士たちが互いに顔を見合わせる。
彼等は、非合理的なことは好きでも、不粋なことを嫌悪するアテナの性分をよく知っていた。
「恋に目が眩んでいる男に勝てる者などいませんよ。たとえ黄金聖闘士でも必ず返り討ちに合うでしょう」
「キグナスの返り討ちを退けることができても、そんなことをしたら、それこそ死ぬまで野暮な男と嘲笑され続けることになる」
「それは弱いと言われるより屈辱的なことだな」
黄金聖闘士たちはアテナの決断と挑発を笑い話にし、実際にどっと笑った。

聖闘士たちの笑い声が木霊になって消えてから、双子座の黄金聖闘士が一歩前に出て、アテナに言上する。
「アテナのご決断が合理的でないということはないでしょう。たった一人の愛する者のために強大な敵と戦い、たった一人の大切な人の生きる世界を守りたいと、すべての人間が望めば、それはすべての人間がすべての人間のために戦いを決意することと同じです。それは、あなたの聖闘士たちに最もふさわしい戦い方だとは思いませんか」

もう一度アテナの聖闘士たちの表情を順に見詰め、彼の言葉が聖域にいる聖闘士全員の総意であることを確かめると、アテナは彼女の聖闘士たちに、
「ありがとう」
と礼を言った。

まだ笑う気になれないでいるらしい氷河の腕の中で、瞬の青ざめた頬は血の気を取り戻していた。
アテナが彼女の聖闘士たちを代表して、聖域の決定を瞬に告げる。
「瞬、これから私たちは全力であなたを守ります。でも、結局、あなたがハーデスの支配に屈せずにいられるかどうかは、あなたの意思の強さにかかっているの」
「あ……僕は……?」
瞬は、自分が死んでないことに不安を覚えているようだった。
瞳に戸惑いの色が浮かぶ。
これでは氷河の迷いを取り除くことはできない――と、瞬は思ったのだろう。
当の氷河本人の中にはもう、悠長な迷いなどかけらほどにも残っていなかったのだが。

「世界を破滅に導くかもしれない“清らかな者”というのは、氷河ではなくあなたの方よ。あなたは、この世界を滅しようとしている冥界の王ハーデスに、その魂の器として選ばれた。氷河は私の命令であなたを――そう、汚しに行って、でもできなかった。どうしてもできなかった」
「そ……そんなはずありません。僕は清らかなんかじゃない。僕は……人間だもの。きっと今までにたくさんの罪を犯してきた。僕は氷河を騙した――」
否定しようのない事実を告げる瞬に、アテナは苦笑せざるを得なかった。
実際 瞬は、実に見事にアテナとアテナの聖闘士を欺き、その本心を偽ったのだ。
“現世で最も清らかな人間”が。

「ええ、あなたは確かにひどい嘘つきね。騙される方もかなり間が抜けていたとは思うけど」
清らかな乙女の姿をした女神アテナは、なかなかに辛辣である。
だがそれは、へたな慰めよりは、瞬の心に救いをもたらすものだったろう。
「あなたは、“清らか”ということはどういうことだと思っているの」
「それは……自分以外の人のために――自分以外の人の幸福のため、自分以外の人を生かすために、我が身を捨てることのできる人のことでしょう? 氷河や、ここにいる人たちのように」

“現世で最も清らかな人間”に“清らか”と評された者たちが、少々きまり悪そうな顔を作る。
アテナは、そんな彼女の聖闘士たちに からかうような苦笑を見せてから、瞬の方に向き直った。
「その考えは必ずしも間違ってはいないでしょう」
瞬は、自分がその“清らか”な行為を実践したことを意識していないようだった。
我が身を犠牲にしてでも他人のために――氷河のために――死のうとしたこと。
そうすることは特別なことではなく、自然で当然の振舞いだという考えが、瞬の中にはあるのだ。

「あなたが強くあれば、きっとハーデスは退けられるわ」
「僕は強くありません」
「そんなことはないわ。あなたはとても強いし、既にハーデスと戦い始めている。自覚がなさすぎるのも困りものね」
アテナは軽く眉根を寄せて、本当に困ったような顔になった。
それから、からかうような光を その瞳に浮かべる。

「あなたは氷河が好き? それは自覚できているの?」
改めて訊かずともわかりきっていることを訊くアテナの意地の悪さに、そんな彼女をよく知っている聖闘士たちが、瞬を哀れむように肩をすくめる。
瞬は彼のために命をかけた。
瞬が瞼を伏せたのは、それを言ってはならぬことだと思い込んでいるからのようだった。

「氷河はあなたが好きなのですって。氷河のためにも強くなって、あなたは あなたの意思とあなたの命を守ってちょうだい。それで氷河が喜ぶの」
「氷河が?」
瞬が恐る恐る 自分を抱きしめて放そうとしない男の顔を見上げる。
氷河と目が合うと、瞬は慌ててまた顔を伏せてしまった。

年齢にはふさわしいものなのかもしれないが、ハーデスの魂の器という立場の人間には 全く似つかわしくない瞬の初心うぶな反応を見せられて、その場に居合わせた聖闘士たちは揃って背中にむずがゆいものを感じることになったのである。
処女神アテナの前で、よくそんな可愛らしい真似ができるものだと、彼等は瞬の豪胆さに驚き呆れてもいた。

瞬の可愛らしい様子に気を悪くした様子もない処女神が、優しく、だが厳しい眼差しを瞬に向ける。
「それがあなたの戦い――あなたはおそらく、私の聖闘士たちの誰よりも過酷な戦いを戦わなければならなくなるわ。戦えるかしら」
「でも、僕は――」
「自信がないから生きることを放棄する――なんて見苦しい真似はしないでちょうだいね」
苦難から逃れる方法の中で最も安易な手段に、アテナがきつく釘を刺す。
『たとえどんなに苦しい戦いを戦うことになったとしても、生き続けろ』と、アテナは瞬に命じていた。

そして瞬は――瞬も――本当はアテナと同じことを願っていたのである。
『生きたい』――と。
出会った瞬間、その瞳の美しさに息を呑み 心惹かれた人を、生きて いつまでも見詰めていたい――と。

アテナの前だというのに恋人を抱きしめて離そうとしない氷河を見上げ、その“綺麗な”瞳を見詰めて――今度は瞬は、その目を伏せることはしなかった。
「氷河が生きていてくれるのなら、氷河に生きていてもらうためになら、戦えると思います。生き続けます」

瞬の言葉にアテナが頷く。
これで、ハーデスとの聖戦に向けての聖域の姿勢は決まった。
否、それは最初から決まっていたことだったのだ。
アテナとアテナの聖闘士たちは、生きている・・・・・人間の幸福を守るために戦う者たちだった――最初から。






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