希望の小箱






昔々、ギリシャはポリスと呼ばれる たくさんの都市国家から成っていました。
古代のギリシャは、ギリシャという一つの国ではなかったのです。
ポリスの政体は、地域や風土によって、王政、貴族を中心とする寡頭政、全市民参加の直接民主政等さまざまで、一人の王様が治めている国もありましたし、国民の話し合いによって国家運営の方針を決めている国もありました。
もちろん、どんな政体を採っていても、各国の民や支配者たちが神の意向を無視することは 決してありませんでしたけれどね。

これは、そういう時代、そんなポリスの中の一つ、ある小さな国でのお話です。
その国は王政を採用していて、王家には、若い王様と、その弟である王子様がいました。
王子様の名前は瞬といって、その姿も心もとても美しい王子様でしたが、大層お気の毒なことに、瞬王子の瞳は光を捉える力を持っていませんでした。
瞬王子は盲目だったのです。

とはいえ、瞬王子は生まれつき目が見えなかったわけではありません。
晴れた日のエーゲ海の水面のように輝くエメラルド色の瞳は、瞬王子が生まれた時には ちゃんとものを見ることができていたのです。
幼い頃の瞬王子は、眩しい光に目を細め、陽光を受けて輝く海を見ては歓声をあげる、ごく普通の幸福な王子様でした。

瞬王子が光を失ったのは、瞬王子が5歳の誕生日を迎えてまもなくのこと。
当時、小さなポリスから成るギリシャでは、それぞれのポリスが互いに同盟を結んだり戦ったりして併合や分離独立を繰り返していました。
そんな中、瞬王子の国が新たに築こうとした植民市の領土を巡って他の国と戦になり、瞬王子の父君はその戦で命を落としてしまったのです。

その時、瞬王子のお母様は、夫である国王の死を深く嘆かれ、絶望し、こんなに悲しい世界を我が子には見てほしくないと 強く強く願われたのです。
そして、その願いを叶えてくれるよう、国の守護神であるアテナに祈ったのです。
瞬王子の母君の嘆きに同情したアテナは、彼女の願いを聞き入れました。
その時から――瞬王子の透き通った綺麗な緑色の瞳は、光を認知しなくなってしまったのです。
悲しみと苦しみに満ちた世界を見なくても済むように。

瞬王子のお母様は、愛する人の死をあまりに悲しみすぎたのでしょう。
瞬王子が光を失ってまもなく、瞬王子の母君は、瞬王子のお父様のあとを追うようにしてお亡くなりになりました。
ですから、瞬王子の母君が、瞬王子から悲しみに満ちた世界を見る力が取り除かれたことを喜んでいたのか、あるいは自らの祈りを後悔していたのか、それはもう誰にもわかりません。
ただ、瞬王子がお母様の死を、その目で見ずに済んだことは事実でした。
見なかったからといって、瞬王子がお母様の死を悲しまずに済んだわけではなかったでしょうけれど。
見えなくても、実際に悲しみは瞬王子の胸の中にあったのですから。

瞬王子は小国とはいえ、一国の王子様でしたから、目が見えなくなっても、ご両親が亡くなっても、世界に見捨てられることはありませんでした。
瞬王子は、王宮に仕える者たちによって大切に大切に育てられたのです。
国の王である瞬王子の兄君は、光を失った腹違いの弟を哀れみ溺愛し、滅多に城の外に出すことをしませんでしたので、瞬王子は、目が見えないことで大きな怪我をすることもありませんでした。
勘がよく、運動神経も優れていた瞬王子は、日常の生活に支障をきたすこともなかったのです。

瞬王子はとても美しく可愛らしい面立ちの王子様でしたが、瞬王子自身はその姿を自分の目で見ることはできませんでした。
だからこそ、瞬王子は我儘で思いあがった王子様にならずに済んだのかもしれません。
自分の美しさを見ることができないように、瞬王子は他人の美しさを見ることもできませんでした。
ですから、瞬王子は、姿の美醜や身につけている衣装などで人を差別することもしませんでした。
人間の評価ということに関しては、瞬王子は大変公平な判断ができる王子様でもありました。

そんなふうに――悲しみも苦しみも、美しいものも醜いものも見ることなく、一見すれば何不自由なく幸福に、瞬王子はすこやかに成長していきました。
けれど、年頃になると、瞬王子も 周囲の者たちに愛され守られるだけの幸福な王子様ではいられなくなります。

闇をしか映さない瞬王子の瞳。
瞬王子は、美しい花も空も虹も星も見ることはできません。
悲しみを見ないということは、そういうことでした。
当然のことながら、どれほど美しいお姫様も、その美しさで瞬王子の心を動かすことはできません。
瞬王子は、もちろん 醜い人間に嫌悪を抱くこともありませんでしたけれど、たとえば、さほど際立った容貌の持ち主でない人の優しい心に触れて、突然その人が美しく見えるようになるという、あの魔法の一瞬を実感することは、瞬王子にはできないのです。

だからでしょうか。
瞬王子は、思春期と呼べる年頃になっても、その不安定な時期を過ぎても、特定の誰かに特別な好意を抱くことはありませんでした。
瞬王子は、すべての人に好意を抱いていましたが、特定の誰かに恋をすることはなかったのです。

瞬王子の兄君は、そんな瞬王子を大層心配していました。
もし瞬王子の目が見えていたなら、瞬王子の兄君も、そんな心配をすることはなかったかもしれません。
ちょっと奥手なだけで、瞬王子もいつかは、世界中の人間が恋を経験するように、自然に恋を知ることになるだろうと思うことができていたに違いありません。
けれど、瞬王子の目が見えないことが、瞬王子の兄君をとても過保護で心配性なお兄様にしていたのです。

瞬王子の兄君の心配を深いものにする理由は、それだけではありませんでした。
目が見えないということは、人を外見で判断する過ちを犯す可能性を持たないということですが、同時に、目が見えていれば正しく判断できていたはずのことで判断を誤る可能性を有するということでもあります。
たとえば言葉では美しく正しいことだけを並べたてていながら、その人間の手は盗みを働いていたり、人を傷付けたりしているということが、大変残念なことですが、この世界には多くありますよね。
けれど、目の見えない瞬王子には、それがわからないのです。

瞬王子の兄君は、そんな瞬王子の将来を心から心配されました。
目の見えない瞬王子が、口だけは達者な性悪の少女に騙されて、不幸な恋をすることになったりしたら――それは死王子の不幸であるだけではなく、瞬王子を愛する君たちをも不幸にすることです。
兄君は、瞬王子に幸せになってほしかったのです。
瞬王子には幸せになって当然の価値があるとも、瞬王子の兄君は思っていたのです。

そこで一計を案じた兄君は、ある日、国の守護神であり知恵の女神でもあるアテナに頼んだのでした。
瞬王子が生涯の伴侶を選び間違えることがないように、何らかの方策を授けてほしいと。
兄君の心配は、アテナが瞬王子の母君の願いを聞き入れずにいれば生じなかったはずの心配事。
アテナは、瞬王子の境遇に少し責任を感じていたのかもしれません。
彼女は、瞬王子の兄君の願いをすぐに聞き入れ、彼にその策を与えたのです。

アテナが兄君に与えたもの。
それは、一つの小さな青銅製の小箱でした。
その小箱を彼女が祭られている神殿の聖壇の上に置き、彼女を称えるために集っていた民たちの前で、アテナは宣言したのです。
「瞬王子の心と身体を望む者は、瞬王子にふさわしいと思う贈り物をしなさい。瞬王子に最もふさわしい贈り物をした人間こそが、瞬王子をその手にする権利を持つ者、瞬王子の永遠の伴侶となる者です。瞬王子にふさわしい贈り物が何であるかは、この箱の中にある羊皮紙に書いてあります。瞬王子と結ばれるべき相手は、必ずや瞬王子にふさわしい贈り物をするでしょう。その者だけが、この箱の蓋を開けることできるのです」
アテナの言葉を多くの民が聞きました。
そして、アテナの神託は、時を経ずしてギリシャ中の人間の知るところとなったのです。

アテナの神託を聞いて、瞬王子の兄君は ほっと安堵の胸を撫でおろしました。
知恵の女神であるアテナが考えた策に間違いがあるはずがありませんからね。
アテナの小箱の蓋を開ける者こそが、神の御心に沿った者。
その人物は、必ずや哀れな弟を幸せにしてくれるだろう――と、瞬王子の兄君は思いました。
これで、瞬王子がたちの悪い女に引っかかる心配もなくなります。
あとは、あれこれと気を揉むこともなく、瞬王子にふさわしい贈り物を持ってきてくれる少女の出現を待てばいいだけなのです。

さて、アテナの神託は、「瞬王子に最もふさわしい贈り物をした人間こそが、瞬王子をその手にする権利を持つ」というものでした。
それが、高貴な姫君であるべきだとも、貧しい農民の娘ではいけないとも、アテナは言いませんでした。
アテナの神託を聞いて色めき立ったのは、一国の王子様にふさわしい身分に生まれた少女たちだけではありませんでした。
それこそ、国中の少女という少女が(その中には、既に少女とは呼べない年齢の女性も混じっていましたが)こぞって贈り物を携えて、瞬王子の国の都にあるアテナ神殿に足を運ぶようになったのです。

美しい宝石を持ってくる貴族の娘、大きな袋いっぱいに詰まった金貨を持ってくる大商人の娘、綺麗な衣装を手にした お針子や、焼きたてのパンを持ってくる貧しい素朴な村娘。
様々な少女(と女性)が、これこそ瞬王子にふさわしい贈り物と信じるものを携えて、アテナ神殿に続々と詰めかけたのです。
かくして、本来は神聖な静寂に包まれているべきアテナ神殿には、毎日のように少女たちの落胆の溜め息や絶望の悲鳴が満ちることになったのでした。

瞬王子が美しく優しい心の持ち主であることは、国中に――いいえ、ギリシャ中に知れ渡っていましたし、なにしろ彼の伴侶となることができたなら、小国とはいえ ギリシャで最も由緒正しい王家の一員になることができるのです。
その幸運を望まない少女はいませんでした。
ですから、それこそ毎日、幾人幾十人もの少女たちがその幸運を手に入れることを夢見てアテナ神殿に足を運んだのです――が。
いったい アテナは、何が瞬王子に最もふさわしい贈り物だと思っているのでしょう?
神殿に詰めかけてきた幾百人もの少女(と女性)たちの誰も、アテナの小箱の蓋を開けることはできなかったのです。






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