瞬王子自身は、アテナ神殿にやってくる者たちが贈り物を贈る相手の心や価値観に思い至っていないことに憤りを感じてはいないようでしたが、この事態に不安を覚えてはいるようでした。
それはそうでしょう。
今の状況は、瞬王子自身が望んで生じたものではないのですから。

「アテナのなさることに間違いはないと思うけど、僕がその人・・・を自分で選ぶことはできないのかな」
光を捉えていない瞳に心許なげな色をたたえて そう告げる瞬王子に、氷河は、彼の大切な王子様よりずっと不安な気持ちになりました。
こころなしか、花園の花たちも不安げに首をかしげています。
「誰か……心に決めた者がいるのか」
「そういうわけじゃないけど、もしアテナの考えに沿う贈り物を贈ってくれた人がいたとして、僕はその人を必ず好きになれるかどうか わからないでしょう? それが不安なの」

人間は、この世に生を受けること、その両親、境遇を、自分で選ぶことはできません。
特に瞬王子は、その視覚を失ったのも母君の思いによるもので、それは瞬王子自身が望んだことではありませんでした。
人は、多かれ少なかれ、否応なく他者に押しつけられた境遇の中で生きているものです。
でも、だからこそ、自分で選択できるものは自分の考えで選びたいと願うもの。
そうすることで人は、他者に与えられた自分の生に責任を負うことができるようになるのです。
たとえ それで不幸になることがあったとしても、アテナに頼らず、“その人”を自分で見付けたいと瞬王子が望むのは、当然のことだったでしょう。
自分で考え自分で選んだ結果の不幸なら、瞬王子はその不幸を他人のせいにせずにすみます。

瞬王子の心が、氷河には痛いほどわかりました。
自分で選べるものなら、自分で選びたいのです。
瞬王子に贈る物を何も持たない一介の護衛兵には、その“選ぶ権利”さえ与えられていませんでしたけれど。

「――今日も、ミケーネの王が、アテナ神殿の聖壇に純金の甲冑を捧げて失敗したそうだ」
「よくわからない……。僕はこの国の王子だけど王になることはないし、それどころか、目が見えないせいで誰かの足手まといになることしかできない。そんな僕のために、どうしてそんなにたくさんの人が――」
「瞬は素直で優しいし、何より美しいから」
邪まな欲望に突き動かされてアテナ神殿にやってくる者たちの中には、瞬王子が盲目であることをむしろ好都合と考えている者もいる――などということは、さすがに氷河も口にすることはできませんでした。
でも、それは事実だったのです。

「そんなもの、目をつぶってしまえば見えないでしょう」
「目を開ければ見える」
「……」
瞬王子が寂しそうに顔を俯かせてしまったのは、彼が氷河の言葉を、『人は 目に見えるものにしか価値を見い出していない』という意味に解したからだったでしょう。
その理屈でいけば、盲目の瞬王子には 価値あるものを見ることはできない――ということになります。
瞬王子の誤解を解くべく、氷河は急いで言葉を継ぎました。

「俺は、目をつぶっていても、すぐに瞬の姿を思い描くことができるが」
「僕は――氷河にどんなふうに見えているの」
「目をつぶっていても、開けていても、綺麗だ。とても」
氷河は、その手を伸ばして瞬王子の頬に触れ、言いました。
それは二人の他に誰もいない閉鎖された花園でだからできること。
こんなところを瞬王子の兄君に見付かりでもしたら、氷河は即座に不敬罪で牢に繋がれていたことでしょう。
瞬王子は軽く首を横に振り、見えない目を凝らすようにして氷河の顔を見上げました。

「僕なんかより――氷河はとても綺麗なんだって。みんなが言ってる」
「瞬に見てもらうことができないのなら、そんなものは無意味だし、無価値だ」
「見えないなら……」
それは氷河の本心でしたが、目の見えていない瞬王子に言ってはならない言葉でもありました。
自身の失言を悔やみ唇を噛みしめた氷河に、瞬王子が尋ねてきます。

「目が見えないっていうことは、不幸なことかな? それとも幸福なことなのかな……?」
「瞬は、自分を不幸だと思っているのか」
「そんなことはないよ。いつもは平気なの。氷河がいつも側にいてくれるし、この城を出ない限り、そんなに不自由はないから。みんなも目の見えない僕を気遣って優しくしてくれる。でも、今みたいに、氷河の姿を見たいのに見ることができない時は悲しい」
「俺の顔など、そう大層なものじゃない」
呟くようにそう言ってから、氷河は、彼にとっては“とても大層なもの”である瞬王子の顔を見詰めました。

「人は美しいものだけを見ることはできない。美しいものと醜いものの両方を見るか、両方を見ないかだ。どちらを選ぶかは――」
氷河が言い澱んだのは、彼が言おうとした言葉はまた瞬王子を傷付けてしまうものかもしれないという懸念があったからでした。
自分で選ぶことのできなかった瞬王子に、その言葉は過酷に過ぎるものかもしれないと思ったからでした。
けれど氷河は、結局、その言葉を口にしたのです。
「選ぶのは自分自身だ」
――と。
それは、心の中の目のことでしたから。
美しく醜い世界を見るか見ないか――それを決めるのは、その人間の意思なのです。
瞬王子に選ぶことができるのは、不幸なことに、『見るか見ないか』ではなく、『見たいか見たくないか』ということだけでしたが。

氷河の言わんとするところを正しく解したらしく、瞬王子は今度は傷付いたような表情にはなりませんでした。
氷河の意見に賛同している様子で、瞬王子は氷河に尋ね返しました。
「氷河は? 氷河はどっちを選ぶの?」
「俺は――おまえを傷付けるつもりはないが、おまえを見ていられることは嬉しい。目が見えるから、こうしておまえの側に仕えることもできているんだし」
「うん……。僕も氷河を見たい。氷河の瞳は、夏の晴れた日の空の色をしてるって聞いた。どんな色なの……」

それは、瞬王子が初めて口にした無念の思いだったかもしれません。
母君の悲しみ、兄君の慈しみ、盲目の王子を気遣う城内の者たち――彼等の心を知っている瞬王子は、これまで一度たりとも自分に与えられた境遇を嘆いてみせたことはありませんでした。
氷河の前でも――氷河しかいない場所でも。
今日の瞬王子は少し、いつもと様子が違っていました。

「氷河のお母様は、なぜ願わなかったのかな。氷河に悲しみを見てほしくないと」
「俺に……美しいものも醜いものも、喜びも悲しみもしっかり見てほしいと思ったからだろう、おそらく」
「それを正しい考えだと思う?」
いつもと様子の違う瞬王子。
いつもの風に揺れる花のような風情をしていない瞬王子は、まるで極限まで薄く研ぎ澄まされた剣のようでした。
とても鋭いのに、ちょっと力を加えられただけで折れてしまいそうな、そんな様子をしていました。
そんな瞬王子に自身の考えを伝えることを、氷河はためらったのです。
ためらいはしましたが、氷河は瞬王子に嘘をつくわけにはいきませんでした。
だから、氷河は、瞬王子に頷きました。

「ああ」
氷河は、瞬王子の母君のしたことを大きな過ちだと思っていました。
氷河の答えを聞いた瞬王子が、瞳に涙を浮かべて微笑みます。
そうして、瞬王子は――瞬王子もまた――氷河に頷き返しました。
「僕もそう思う。氷河のお母様の方が正しい。氷河のお母様は、本当に氷河を愛していたんだ」
ぽろぽろと、瞬王子の瞳から涙が零れ落ちます。
瞬王子は、それでも母君を愛していたのでしょう。
自分の母の為した悲しい行為を間違っていると認めること、そう思わずにいられないことは、瞬王子にはとてもつらいことだったに違いありません。

「瞬……」
瞬王子に、その“つらいこと”を強いてしまったのは氷河自身です。
氷河は、自分が傷付け泣かせてしまった瞬王子を抱きしめずにはいられませんでした。
「愛していても、愛しているからこそ、判断を間違えることはある。おまえが母親に愛されていなかったわけじゃない。おまえの母はおまえを愛していたんだ。おまえの幸福を願っていた」

瞬王子も、それはわかっているようでした。
瞬王子の涙は、母君の愛情が信じられないから零れているのではなく、信じられるからこそ悲しくて、だからあふれてくるのでした。
瞬王子は、氷河の胸の中で幾度も首を横に振りました。

「氷河が見たいの。氷河の空の色をした瞳が見たい。氷河の瞳に映る僕を見たい。そうすることができたなら、僕はどんな悲しみからも目を逸らさずに耐えてみせる。氷河……氷河、僕、知らない人のものになりたくない。甲冑だの王冠だの、そんなものを人に贈ることを考えるような人はいや。恐い。僕は、氷河がずっと側にいてくれるなら、他の人はいらない……!」
「しゅ……」
もしかしたら それは、幸福も不幸も人から与えられるばかりだった瞬王子が初めて自分で望み選んだもの――だったかもしれません。

「僕は氷河がいてくれればいいの! 氷河だけが、僕に何も押しつけない。僕は氷河が――」
瞬王子がその言葉の先を口にしなかったのは、自分が盲目であることに、瞬王子が引け目を感じていたからだったのでしょう。
その言葉が氷河の迷惑になると思ったからだったのかもしれません。
瞬王子が言葉にしなくても――けれど、その言葉は氷河の耳にはちゃんと聞こえていました。

「瞬……」
二人の他には誰もいない ささやかな花園で、氷河は瞬王子を抱きしめる腕に力を込め、薄桃色の花びらのようなその唇にキスをしました。
瞬王子に贈る物を何一つ持っていない我が身を忘れたわけではありませんでしたが、氷河は瞬王子に向かう自分の心を、どうしても抑えることができなかったのです。






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