朝まだき。
薄い朝靄が消えると、ヒュペルボレオイの王と彼の従者たちのいる小高い丘の下に広がる平原で、エティオピア正規軍と反乱軍が、静寂を挟んで向かい合っている様がはっきりと確認できるようになった。
兵の数は正規軍の方が はるかに少ない。
反乱軍2000、正規軍は1000ほどだろうか。
将のもとに統率され整然と居並ぶ正規軍に対して、反乱軍はいかにも烏合の衆といった様子だったが、兵力の差は歴然としている。

いつ、何を合図に戦いは始まるのかと、ヒュペルボレオイの王は、対照的な両軍のありさまを眺めていたのだが、真打ち登場とばかりにやってきたエティオピア国王が彼の陣の先頭に立った時、既に戦いは始まっていたらしい。
反乱軍の最後尾で部下たちに囲まれていたシュルティスの領主は、どうやらエティオピア国王の登場時に攻撃命令を発していたらしいのだ。

しかし、先頭に立って軍を率いる将がいない上に、攻撃命令が部隊の最後方から出されているのでは、その命令が迅速に全軍に伝わるはずもない。
領主に前進しろと急かされても、前方の兵が動かないことには、後方の部隊はどうすることもできない。
エティオピア正規軍は何もしていないというのに、反乱軍の後方では既に混乱が起こっていた。

反乱軍の混乱に気付いているのかいないのか、散々ヒュペルボレオイの王を待たせてからやっと、馬上のエティオピア国王が 剣を持った右手を天に向けて伸ばす。
その瞬間に、合図となるときの声も、進軍を促す太鼓の音もなく戦闘が始まった。
ヒュペルボレオイ国王がエティオピアの王に感じた『小柄』という印象は、実際に戦いが始まると、一瞬で吹き飛んでしまった。

エティオピア国王の率いる正規軍はエティオピアの都からの遠征軍である。
エティオピアの都からこの国境まで、早馬を飛ばせば半日もかからないが、歩兵を移動させるとなると3日はかかる
エティオピア正規軍は、昨夜この戦場に着いたばかりだった。
そして、エティオピア国王は国の全軍を率いてきたわけではなく、兵士の数は反乱軍の半数ほど。
兵の数で勝り、地の利を得、遠征の疲れを残してもいない兵で構成されている反乱軍の方が圧倒的に有利な戦い――のはずだったのだ、これは。
だが、漆黒の甲冑をまとい白馬に跨ったエティオピア国王が彼の軍を率いて反乱軍に向かって駆け出した途端、そんな真っ当な考えが無意味であることを、戦場にいたすべての者が知ることになった。

軍の先頭に立ったエティオピア国王は、突撃してくる反乱軍の中央に飛び込み、恐怖にかられて がむしゃらに剣を振り回す敵兵たちを右に左にと切り倒し、あっというまに敵軍を二分してしまったのである。
エティオピア国王が作った細い一本の道を、彼の兵士たちが『これほど楽な戦いはない』と言わんばかりに広げながら、反乱軍の兵たちを倒していく。

正規軍の兵たちは既に、自分が命のやりとりをする戦場にいるということを意識してさえいないようだった。
剣を振るってくる兵を倒すことはするが、自分から敵を求めることはしない。
正規軍内では、『戦意のある者だけを倒せ』という命令が行き届いているようだった。
自分の務めを果たしながら、彼等はゆったりと彼等の王に追いついた。
エティオピア国王と彼の兵たちの前にいるのは、逃げる機会を逸して立ち往生しているシュルティスの領主と数人の近習だけである。

「確かに鬼神のごとき戦い振りだな。ギリシャの英雄アキレウスでさえ、これほどではなかっただろう」
一軍の将としてならともかく、一国の王としては無謀とも思える、この果敢。
だが、その無謀なほどの果敢が、彼の兵たちに 自分たちの王の非凡と自軍の勝利を信じさせているのだ。

反乱軍は完全に浮き足立っている。
彼等は、彼等が戦うべき敵を見失ったかのように、ある者は呆然と、また ある者は意味なく辺りを走り回っていた。

「最初から勝敗の決している戦いだったな」
「しかし、兵力はまだ正規軍の方が はるかに少ないではありませんか」
「だが、正規軍には勢いと自信がある。もちろん正義も。正規軍の中に、自分たちが負けると思っている者は一人もいないだろう」
ヒュペルボレオイの王がそう言った時、主戦場の右手から別の声が響いてきた。
エティオピアの王は別働隊をひそませていたらしい。
とはいえ、その数はごく少数だった。
だが、小柄な王が巨人に見えるように、ほんの30騎ほどの伏兵が、反乱軍には3000の大軍にも感じられたのだろう。
エティオピア国王が縦に二分した反乱軍を、今度は僅か30騎の兵が横に二分した。

エティオピア国王の率いる主力軍と30騎の伏兵によって4つの塊りに分断された反乱軍の兵たちは、事ここに至って、自らがこの場にいることの愚に気付いたらしい。
あるいは彼等は恐怖にかられたのかもしれなかった。
反乱軍の兵たちは皆、我先に戦場から逃げ始めていた。
まさに“四散”。
彼等は、逃げ足だけは躊躇なく迅速だった。
反乱軍の兵たちは、最初から自分たちの主人への忠誠心など持ち合わせていなかったに違いない。
というより、あるいはその大半が無理矢理反乱軍に組み込まれていただけの農民だったのだろう。

エティオピア国王は、逃げる兵たちを追うことはしなかった。
軍の最後尾にいたシュルティスの領主と最後まで残っていた数人の近習を捕えると、彼はさっさと自軍の兵を退却させてしまったのである。

つい先刻まで戦場だった場所には、風の音だけが残ることになった。
戦闘後の戦場に付き物の屍や武器の散乱もない。
エティオピア軍は、退却の際に、生死に関わらず動けなくなった兵を担いで戦場を立ち去っていた。
敵とはいえ、自国の民。亡骸を放置して鳥や獣の餌にはできないという考えのようだった。
それができるということは、敵味方を問わず、死傷者がごく少数だったことを意味する。

おそらくエティオピア国王は、自国の民の犠牲を可能な限り少なくするために、最初にあの鬼神のごとき戦い振りを敵に見せつけたのだ。
自信に満ちたあの戦い振りを目の当たりにすれば、彼に敵対している者たちは、神に逆らうような恐怖を覚え 戦意を喪失するに違いなかった。

「鮮やか。不死鳥殿は、自身が強いだけでなく、戦術にも長けている。あれでは、対峙した敵に王の姿が巨人に見えるのも道理というものだ」
さもありなんと、ヒュペルボレオイの王は、手放しで隣国の王を賞賛した。
少し、呻くような低い声で。


エティオピアの国王が“不死鳥”と呼ばれているのは、彼は死んだという噂が立ったことがあったからだった。
2年ほど前、内乱が起こっても彼が一向に討伐軍を出さなかったことがあって、その際に、国の内外で『王は死んだ』という噂がまことしやかに流れたことがあったのである。
その噂に呼応するかのように、各地の粛清待ち・・・・の領主たちは反乱の狼煙をあげた。
今では、その2ヶ月間の沈黙は、各地の領主たちの心根を見極めるための罠だったのではないかと言われている。

沈黙の2ヶ月を破り不死鳥のように再び戦場に現われたエティオピアの王は、以前にも増して驚異的な力を見せつけて、次々に反逆者たちを倒し、その領地を没収していった。
彼が病に侵されていたのは事実だったのかもしれず、彼が死んだという噂も根拠のないことではなかったのかもしれない。
だが、だとしてもエティオピア国王は、一度死の国に下り、そこで冥界の王に新たな力を与えられて戻ってきたのだと、エティオピアの国の民は半ば本気で信じているようだった。

「彼が自国を完全に平らげたら、次に進出するのは我が国しかない――わけだが」
「それは困ります。我が国は、前王の死後に起こった幾つもの内乱を鎮圧して、やっと国内統一を果たしたばかり。ここで息つく間もなく他国との戦いが始まったのでは、せっかく平和の時と まともな王を手に入れた我が国の民が不満を抱くことになるでしょう」
「エティオピアに間諜を送り込んでおいた方がいいかもしれないな」
ヒュペルボレオイの王が、従者の言葉に浅く頷く。

彼の父である前国王は、国と民のことを第一に考える“まともな王”ではなかった。
そのあとを継いだヒュペルボレオイ現国王は、国の秩序回復のために散々辛酸を舐めさせられてきたのだ。
しばらくは――できれば永遠に――国力の回復にだけ努めたい――というのが、ヒュペルボレオイ国王の何よりの希望だったのである。

「エティオピアの王はどうだろうな。戦には強いようだが、国政の方は。もしエティオピア国王が武力と戦いの成果だけで国と民を支配しているのなら、自国が収まったからといって戦いをやめるわけにはいくまい。戦いを続け、戦いに勝ち続けることが、彼をエティオピアの王としているのなら、国内に敵のいなくなった彼は、次の敵を国外に求めるはずだ」
それが、現在のヒュペルボレオイ国王の最大の懸念だった。
エティオピア国王の戦い振りを見せつけられた直後ではなおさら、その懸念は大きくなるばかりだった。
負けるとは思わないが、容易に勝てる相手とも思えない。
ヒュペルボレオイの国王にとって、エティオピア国王はそういう存在だった。
今日、彼の戦いを見ることによって、エティオピア国王はそういう存在になった。

だが、両国が友好関係を保てるのなら、北の大国と南の大国は、互いに利益を供与し合える友人同士になることもできるだろう。
「エティオピアの不死鳥殿が戦うことしか能のない馬鹿者でないことを祈る」
ヒュペルボレオイ国王は 低い呟きをその場に残して、馬の身体を自国の側に向き直らせた。






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