その夜、エティオピアの王城は、深更まで騒がしかった。 城下の町でも、ついに訪れた平和の時を歓迎し、お祭り騒ぎが続いていたらしい。 騒ぎ疲れ、祝い疲れて、城内が静まりかえった頃、氷河は彼の豪奢な牢獄を抜け出した。 王城で王の居室がある場所は大体察しがつく。 城の中でも奥まった場所にある、敵の攻撃にさらされにくい部屋。 どんな造りの城でも、城の主のいる場所はおおよそ決まっているのだ。 実際、氷河はすぐにその部屋を見付け出すことができた。 部屋の扉の前に守兵が4人も立って警備している部屋。 その場所を確認すると、氷河は別の部屋から外にまわり、バルコニー伝いにその部屋に侵入することに成功した。 エティオピア国王の命を奪うことを考えていたわけではない。 そんなことをしたら瞬に憎まれることも、まかり間違えば、この城に王の暗殺者を招き入れた瞬が王の死の責任を取らされかねないことも、氷河にはわかっていた。 そういう野蛮な行為に及ぶつもりは さらさらなく――氷河はエティオピア国王にじかに談判するつもりだったのだ。 ヒュペルボレオイへの侵略を企まないという確約を得、瞬を自由の身にすることを、エティオピアの不死鳥に約束させるつもりだった。 エティオピア国王の寝台は天蓋から垂らされた幾重もの薄絹の これも前王の趣味だったのだろう。 部屋に一つ二つ灯っている明かりと、庭から射し込む月の光で、室内の様子は容易に見てとれた。 寝台以外の調度類はあまり置かれておらず、その室内は 空虚を感じるほど簡素なものだった。 おそらく、もともとあった様々な装飾品を片付けさせたために、広い印象だけが残るこんな寝室ができあがったに違いない。 氷河が寝台の内と外を隔てている純白の帳に手をかけると、さすがに侵入者の気配に気付いたらしく、寝台の上の人物は帳の向こうで上体を起こした。 氷河は低い声で、その人物に語りかけたのである。 「人を呼ぶことはご遠慮いただきたい。エティオピアの国王に話がある」 氷河の求めに返されてきた答えは、だが、氷河にとっては ひどく思いがけないものだった。 「その声――氷河……?」 それは聞き間違えようのない――氷河が恋する人の声だった。 「なに…… !? 」 なぜエティオピア国王の寝室――寝台から、瞬の声が聞こえてくるのか。 その理由を考えて、氷河は目の前が真っ暗になってしまったのである。 運命の神の鉄槌で頭を殴りつけられたような衝撃を受けた。 瞬がエティオピア国王の寝台にいる――。 エティオピア国王の“お気に入り”とは、ではこういう意味だったのか。 しかし、そんなことがあり得るはずがない。 瞬は、キスの仕方さえ ろくに知らずにいた。 あれが演じられた清純だったとしたら、いったい瞬は何のためにそんなことをしたのだ――。 様々な考えと疑念が 次から次へと生まれてきて、それらは氷河を混乱させた。 この混乱を収拾するためには、事実を知るしかない。 そう考えた氷河が純白の帳を払いのけると、エティオピア国王の寝台には、薄い夜着を1枚を身につけただけの、見間違えようもない瞬の姿があった。 早まったのか、あるいは幸運だったのか、エティオピア国王はまだ寝室に入っていなかったらしく、寝台の上にいるのは瞬一人だけだった。 この現実――絶望的なこの現実――に、氷河は大きな衝撃を受け、そして、自身の愚かさを自覚しないわけにはいかなくなったのである。 「王が許さないとはこういうことだったのか……。そういえば、エティオピア国王は30手前の男盛りで、まだ妻帯もしていないという話だったな」 「違います! 氷河、なに誤解してるの!」 「おまえは俺を弄んだだけだったんだ」 「ひ……人聞きの悪いこと言わないで。いつ、僕がそんなことをしたの!」 「俺をこんなにおまえに夢中にさせておいて、おまえは王とよろしくやっていたわけだ。俺はさぞかし滑稽な玩具だっただろう」 「違うっ!」 事ここに至り、この事態を否定して、瞬はどんな弁明をしようというのか。 どれほど澄んだ瞳と清純な姿の持ち主でも、この状況を 「違う !? なら、なぜおまえは王の寝室にいるんだ。ここで、おまえは毎晩 俺じゃない男と――俺以外の男に組み敷かれて――」 ぎりっと音がするほど強く、氷河は奥歯を噛みしめた。 胸が焼けつくように痛い――熱い。 これほどまでに激しい怒りは、氷河が生まれて初めて経験するものだった。 戦いを嫌っている瞬を戦場にまで伴うほど――ほんの数日離れていることもできないほど、瞬はエティオピア国王に“気に入られて”いるのだ。 王という地位をかさにきて浅ましい欲望で瞬を汚している男を殺してやらなければ、この怒りはおさまらないと、氷河は本気で思った。 「俺以外の男がおまえを――」 言葉にするのも不愉快なことを、なぜ自分は繰り返し口の端にのぼらせるのか。 我ながら自虐的なことをしていると思わないでもなかったのだが、その理由は明白だった。 氷河は憤り続けていたかったのだ。 この残酷な現実に打ちのめされて泣いてしまわないために。 怒りだけが、かろうじて今の氷河を支えてくれる唯一の力だった。 この一目瞭然の状況を、いったい誰になら清らかに説明できるというのか。 氷河が誰にもできないだろうと信じる行為を、しかし瞬は実に鮮やかにしてのけたのである。 「下品な想像はやめてっ! 王が王の寝室にいて何が悪いのっ」 と、氷河に向かって叫ぶことで。 「……なに?」 あろうことか、瞬の首に伸ばされかけていた氷河の腕が、ぴたりと宙で止まる。 「エティオピアの現在の国王はこの僕です!」 「へ……?」 氷河の喉の奥からは、ひどく間の抜けた音が洩れることになった。 |