「瞬っ!」
誰かが、ふいに僕から空を奪った。
芝生に横になっていた僕と空の間に誰かが割り込んできて、僕の視界いっぱい広がっていた青い空を、その身体で隠してしまった。

空に飛んでいた僕の心が、身体の中に戻ってくる。
つらいだけの現実に引き戻された僕は、がっかりした。
こんな ささやかな楽しみさえ、僕は人に奪われてしまうのかと、少し恨みがましい気持ちが生まれてくる。

僕から“自由”を奪ったのは、大勢いる僕の仲間たちの内の一人だった。
城戸邸に集められた子供たちの中で ただ一人金色の髪を持つ――氷河。
「……死んでるのかと思った……」
僕が瞬きをしながら氷河の顔を見やると、ほっとしたみたいにそう言って、氷河は僕の横に座り込んだ。
ろくに瞬きもせず横になっていた僕は、氷河にしなくていい心配をさせてしまったらしい。
趣味の時間を邪魔されたくらいのことで、僕の身を案じてくれた人を厭わしく思うなんて――って、僕は自分の驕りを反省した。

「何をしてたんだ」
氷河が僕が生きていることを確認するみたいに僕を見詰めながら尋ねてくる。
「空を見てたの」
僕は、嘘ではないけど ほんとでもない答えを返した。
「空に何があるんだ。鳥でもいたのか」
「何も」

もう少し歳がいっていたら、僕にも『自由』を感じることの素晴らしさを氷河に語ることができていたのかもしれない。
でも、あの頃の僕には、僕を支配するあの感覚をうまく説明できる自信がなかったし、他の人が僕の気持ちに共感してくれるとも思えなかったから、僕はそう答えることしかできなかったんだ。
「何もない空を見ていて楽しいのか」
氷河が重ねて尋ねてきて、
「……うん」
僕は沈んだ声音で頷く。

きっと馬鹿にされるか、変な奴だと思われる。
僕はそう思ったんだけど、氷河は僕の予想のどちらをも裏切った。
氷河は突然 僕の隣りに横になって、僕と同じように空を見上げ、僕と同じように無言になり、そして、しばらく経ってから、
「……本当はこんなとこじゃなく、あの空のどっかに、俺たちのほんとの居場所があるような気がするよな」
って言ったんだ。

氷河は僕の気持ちをわかってくれる――そう思った途端、僕は――僕は泣き出してしまっていた。
自由に焦がれる僕の気持ちがわかる氷河には、今の僕の気持ちもわかっているだろう。
僕が心を空に飛ばして、自由を夢見ている訳。そうすることで、僕が何を忘れようとしているのか。

――僕たちの別れの時が近付いてきていた。
氷河や星矢や紫龍や兄さんたちとの。
兄さんと離れるなんて、兄さんと離れて生きるなんて、そんなこと僕には絶対に無理だ。
無理だってことがわかっているのに、どうして この地上にいる人たちは僕にそんな無理を強いるの!

「僕、嫌だよ。恐い。兄さんと離れるのが恐い。みんなと離れ離れになるのが恐い。どんなにつらくても苦しくても、一人じゃないから耐えてこれたのに、一人になってしまったら、僕、どうすればいいの。一人はいや……一人はいや……!」
「瞬……」
氷河に涙を見られたくないからじゃなく、つらい現実を見たくなくて、僕は両手で自分の顔を覆った。
「もう会えない。兄さんにもみんなにも、きっと二度と会えない。僕は一人になったら死んじゃう」
「瞬……」

僕の隣りで身体を起こした氷河が、為す術もなく絶望に囚われている僕を見おろし、見詰める。
氷河は――慰めようがなかったんだろう。
『そんなことはない』『きっと大丈夫』――。
氷河はそんな気休めを言えるタイプの人間じゃなかったから。
氷河は僕に慰めや励ましの言葉を告げることはしなかった。
もう一度僕の隣りに寝転がって青い空に視線を投じ――そうして、泣いている僕を見ずに氷河は言った。

「空を見上げて――」
「え?」
「俺も同じ空に行ってる。おまえに会うために」
「氷河……」
「一人にはならない。おまえも俺も。空は一つだし、繋がっている」
「あ……」

今思うと、それは10にもなっていない子供にしては随分と気障な慰め方だったと思うんだけど。
氷河のその言葉が、すごくぶっきらぼうな声と素朴な響きでできていたせいで、あの時僕は、氷河の慰めを不器用なものにさえ感じていたんだ。
自分の心を巧みな言葉で言い表す術を持たない子供の、心からの励まし――氷河の言葉は、僕にはそう感じられたし、事実もそうだったろう。
氷河自身、自分が気の利いた慰めの言葉を言ったなんて思っていなかっただろうと思う。

「うん……うん……」
だから、僕は氷河に素直に頷くことができたんだ。
氷河に幾度も頷きながら、僕の瞳からは次から次に涙があふれてきて――。
でも、それは悲しいからじゃなくて、僕はあの時 とてもささやかだけど氷河に消えない希望を貰ったような気がしていたんだ。
氷河は、僕と離れて遠いところに行ってしまっても、空を見上げるたびに僕を思い出してくれるだろう。
兄さんだって、きっと遠くにいる泣き虫の弟のことを心配し気遣ってくれるに違いない。

僕が本当に恐れていたことは、僕が兄さんや氷河たちと物理的な空間に隔てられてしまうことじゃなかった。
そうじゃなくて――僕が兄さんや氷河たちに忘れられてしまうことだった。
それが、僕にとっての“一人になること”。
僕を思ってくれている人が この空の下にいるって信じていられるなら、僕は決して一人になることはない――。






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