希望というものは、心を弾ませるもの。そして、同時に心を安んじさせるものでもある。 絶望が作る緊張から解き放たれた氷河は深い安堵を覚え、 「よかった」 溜め息をつくようにそう言って、瞬の肩を抱きしめた。 背もたれのない椅子に腰掛けていた瞬の身体は、突然の氷河の抱擁に僅かに揺れたが、瞬の心は身体より大きく揺れているようだった。 というより、瞬は、氷河の振舞いにひどく混乱した――らしい。 「氷河……! 僕の言ったこと理解してます? 僕は男子だと言ったんです。僕は氷河の子を産むことはできない。僕は、この国のためにも氷河のためにも何一つ有益なことのできない無能力者なんです……!」 今にも泣き出しそうな目をして、瞬が訴えてくる。 だが、それに対する氷河の返答は、至って冷静なものだった。 「国を永く存続させようと思ったら、統治者の地位は血縁に 奴隷の王を嫌ってはいないという瞬の表情と瞳を確かめたくて、氷河は、椅子に掛けている瞬の前に跪き、瞬を見上げ見詰めた。 こんなにも自然に――反抗の念を抱かずに――“人間”の前に膝をつくことのできる自分に、氷河は少々驚きを覚えていた。 瞬にはそうするだけの価値があると素直に信じられることが、嬉しくもある。 「だ……だって、氷河は自分が建てた国を自分の子孫に受け継がせたかったんでしょう? そのために、クレタ王家の血を欲したんでしょう?」 「なに……?」 瞬の言葉に、氷河は微かに眉をひそめた。 奴隷の国の王にクレタ王家の姫君を娶わせることを提案してきた者は、そんなことを考えていたのかと、今になって氷河は考え及ぶことになった。 氷河の真意はそこにあると考えたからこそ、あのクレタの神官も、やたらに奴隷の国の王の子のことに言及していたのだと。 だが、氷河は、そんなことを望んだことは一度もなかったのである。 氷河がクレタの神官の言に憤りを覚えたのも、クレタの巫女姫との間に子を成すことを禁じられたからではなく、妻となる少女に触れるなと言われたからだった。 「そんなことは考えていなかった。俺はただ――」 「ただ?」 「クレタはギリシャで最も長く続いている由緒ある王国で、その王室はギリシャで最も高貴な王室。クレタの巫女姫は、言ってみれば、この世で最も高貴で気高い心身の持ち主、最高の人間だ。その姫がもし、奴隷だった俺を人間として認めてくれたなら、俺は自分を人間だと信じられるようになるんじゃないかと思ったんだ」 だから氷河は、あの老哲学者の提案を受け入れたのである。 この世で最も高貴な姫君が 奴隷を人間と認めてくれたなら、これまで“人間”に虐げられ続けてきた この国の民も自信を回復し、誇りを持って生きていくことができるようになるだろう――そう考えて。 しかし、瞬には、氷河のそんな思いこそが意外なものであったらしい。 瞬は驚いたように目をみはった。 「氷河を人間として認めない人がいるわけがないでしょう。氷河はこのギリシャの4分の1の人間を統べる王なんだよ。クレタの10倍もの数の人たちが、氷河を自分の王だと思っている。氷河は今のギリシャでいちばん強大な力を持った人なのに……!」 瞬の言葉に、氷河はつい冷笑を浮かべてしまったのである。 それは、自分を人間と信じながら、人間として扱われたことのない奴隷の卑屈と屈折を知らない者だけに言える言葉だと。 「ギリシャの4分の1――。それはみんな、これまでギリシャ人たちに人間として見てもらえずにいた奴隷ばかりだがな」 氷河の冷ややかな自虐に、瞬は苦しげに眉根を寄せた。 「氷河は強くて綺麗で、自分に自信を持った人だと――」 「強さなんて、そんなものはいつかは失われる力だ。特に俺のように武力で権力者の地位に就いた者は、一度誰かに敗れたら それで終わりだ。そんなことになったら、ギリシャ人たちは俺を嘲笑い、俺についてきてくれた者たちも俺に失望するだろう。奴隷が人間に逆らうなど土台無理な話だったのだと諦めて、俺から離れていくだろう。そんな力には何の価値もない」 たとえそんなことになっても、氷河は奴隷たちを恨むつもりはなかった。 そう考えざるを得ない境遇に、奴隷たちは馴らされてしまっているのだ――彼等は“人間たち”によって、そう“飼育”されてきた――。 「人が、長く続いてほしいと願うのは、勝利ではなく平和だ。俺は、その平和を築く礎に、高貴なクレタ王家の血を引く者の承認がほしかったんだ」 承認――人に人だと認められること。 氷河が欲していたのは、それだけだった。 それこそを、氷河は欲していたのだ。 「で……でも、氷河はこんなに綺麗で、頑健な身体を持っていて――」 「そんなものに価値があると思っているのか? それは時の流れには逆らえず消えていく、最も儚いものだ。まだ、知恵なら、時を重ねるごとに価値を増すだろうが、それは奴隷の身の俺には手に入れる機会さえ与えられなかった」 「氷河はとても聡明だよ。色々なことを経験して、それをちゃんと生きるための力として身に備えてきた――」 「俺はイデアだのエイドスだのヒュレーだの、高尚なことは何ひとつ語れない自分を知っている」 ギリシャ人たちが価値を置く“知恵”は、そういうものである。 知らなくても 命を永らえることに何の支障もない知識――それを持っているか否かが、ギリシャという世界においては、人間と人間でないものを分ける一つの物差しなのだ。 「俺は、この世界で最も高貴な人に、俺が一人の人間だということを認めてほしかったんだ。そして、愛されたかった」 「氷河は、僕なんかが認めなくても、十分に――」 「俺はそんなに自信家じゃない。これまで誰にも――ギリシャ人はもとより 同じ境遇にある奴隷たちにすら、人間として認められずに生きてきたんだぞ。家畜同様に――言葉を解する家畜と呼ばれ、憎んでさえいる者のために命をかけて戦わされ――。それが急に人間としての尊厳を持てるようになどなるものか」 人は一人では生きていられない。 人が人であるためには人が必要である。 自分が人間であると自覚することすら、人は一人では行なえないのだ。 「俺の中の卑屈は、俺の心身にしっかりと根づいていて、容易に消し去ることはできない。だから、世界が最も価値ある人間と認めている高貴な姫君に愛されたら、俺は自分を一人の人間だと思えるようになるかもしれないと――俺は一縷の希望にすがったんだ」 「氷河……」 瞬は、奴隷の王の悲痛な弱音に胸が詰まった。 世間知らずの非力な子供の前に跪いている氷河は、その鍛え抜かれた頑健な肉体さえ、奴隷としての労働が培った哀れなものと考えているのだろうか――? これほど強い“人間”が、何という悲しい心をその身の内に抱えていることか。 瞬は氷河を抱きしめずにはいられなかった。 初めて自分から腕を伸ばし、その広い肩、力強い首を抱きしめる。 「氷河は人間だよ。人間でないものが人間でありたいなんて考えるはずがないでしょう。花や獣が人間になりたいなんて望むことがあると思う? 花はそんなこと考えない。獣はそんなこと考えない。人間だけだよ」 「――人間を人間と認めない生き物も人間だけだ」 「僕は認める。氷河は僕と同じ人間だよ。僕よりずっと強くて、僕よりずっと人間らしい人間だよ」 「おまえは俺を嫌っているんじゃないのか」 「僕は氷河が好きだよ」 「奴隷あがりの牛馬同然の存在だと、俺を蔑んでいるんじゃないのか」 「氷河はこの大国の王様でしょう。ギリシャで最も力のある国の王だ」 「俺に触れられるくらいなら死んだ方がましだと、そう思っているのではないのか」 「僕が少女だったら、僕はとうの昔に氷河に恋焦がれて死んでしまっていたよ」 「おまえは」 「え」 「男子であるおまえは」 「氷河……」 「俺はおまえが好きなんだ」 瞬を愛しいと感じる、抑え難く激しい思い。 今の氷河には、その気持ちが自分の内にあることが、もしかしたら自分は本当に人間なのかもしれないと信じるための唯一の 瞬だけを求める心、瞬だけに向かう心。 それは、人間ならぬものには抱き得ない情熱だと思う。 奴隷の王を抱きしめてくれている瞬を、氷河は、瞬の数倍の力を込めて抱きしめ返した。 奴隷には持ち得ない瞬の肌のやわらかさ、首の細さ――。 以前は軽蔑と憎悪の対象でしかなかった“人間”のそれを、これほど愛しいと思える日が来ようとは。 氷河はこれまでただの一度も、“人間”を愛しいと感じたことがなかった。 「俺を同じ人間と思うなら、俺を受け入れてくれ」 「でも、僕は――」 瞬の声には涙がにじんでいる。 瞬を悲しませるものは何なのか――その正体を突きとめようとして瞬の顔を覗き込んだ氷河は、驚くべきものを瞬の瞳の中に見い出すことになった。 怯えと恐れと、そして卑下。 氷河に対して負い目を抱いていたのは、瞬の方だったのだ。 そんなものを感じる必要はないのだと 氷河の腕と唇から、瞬は逃げなかった。 |