気がつくと、俺はどこか――石牢のようなところにいた。 とはいえ、その空間の周囲は石ではなく薄闇でできていたが。 闇自体が壁を作っているのか、腕を少し伸ばすと 硬い闇に妨げられて、そこから先に進むことはできない。 そこは薄闇でできた、ごく狭い独房のようなところで、俺に与えられているのは、やっと身体を横たえることができるほどの――幅2メートル四方の空間だけだった。 寒くもなく暑くもない。 目に見える壁がないせいか広さや狭さの判断がしにくく、実際に俺が自由に動ける範囲はひどく狭いのに、閉塞感は感じられなかった。 ただ、湿気がひどかった。 どこかで、水の 他に動いている気配を感じさせるものはなく、もちろん人の気配もない。 滴る水も、いったいどこからどこに向かって落ちているのか、俺には見当もつかなかった。 水の滴る音を聞き続けていると人は気が狂う――という話を聞いたことがある。 そんな馬鹿なことがあるわけがないと、俺はそんな話を信じてはいなかったが、他に何の音もなかったら――五感を刺激するものが他に何もなかったら、それはあり得ることなのかもしれない。 このぼんやりとして捉えどころのない薄闇は、俺の時間の感覚をも狂わせることになりそうだった。 『この牢にそなたがいる限り、余は瞬に指一本触れぬ。言葉も一切かけぬ。あらゆる意味での接触を試みないことを約束しよう。無論、そなたが出たいと言えば、すぐに出してやる。せめて5日くらいはもってほしいものだが、さて……』 どこからかハーデスの声が響いてくる。 本当に、どこから響いてくるのかわからなかった。 はるか高みからの声のようでもあり、俺の足元よりも低く深いところから届けられている声のようでもあり――。 もっとも、俺の足の下にあるものが地面なのかどうかということさえ、俺にはわからなかったんだが。 あの影の正体が本当に冥界の王だったとしたら、ここは冥界のどこか――ということになるんだろうか。 瞬は、俺とハーデスの交したやりとりを記憶しているんだろうか。 憶えていなかったら――突然俺の姿が城戸邸から消えてしまったと、瞬は心配しているんじゃないだろうか。 瞬の身が安全なのなら、それで俺には何の不満もないし、瞬や仲間たちが俺を助けに来てくれなくても一向に構わないが、俺が瞬のためにこうしたのだということは、瞬に知っていてもらいたい。 我ながら さもしい考えだとは思うが、俺は瞬に今の今まで『好きだ』の一言さえ告げたことがなかったんだ。 告げてしまったら、これまで俺たちが培ってきた、“互いの命さえ預けられるほど信頼し合った仲間”という関係が壊れてしまいそうで、俺はどうしてもそうすることができなかった。 ハーデスの言う通り、瞬は清らかな人間で、俺の中にある瞬への思いがどんなものなのかを知ってしまったら、きっと瞬は俺を恐がるようになるだろうとも思った。 それが正しい対処だったのか、ただの臆病だったのか、こういうことになってしまった今でも、俺には判断がつかないが。 それにしても、ハーデスの奴、『5日くらいはもってほしい』だと。 俺は、10歳になるかならぬかの頃に、半月も続く吹雪の中、たった一人で孤立無援の小さな小屋で過ごしたこともある。 閉じられた空間に一人でいることには慣れているんだ。 吹雪の音は現世に未練を残して死んでいった人間の悲鳴のようで、水音なんかよりずっと不気味で不吉だった。 水の音は規則正しく繰り返されている。 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。 ある滴りから次の一滴までには 10秒ほどの間隔があるだろうか。 この音はどこで生まれている音なのか――。 芸もなく突っ立って 水音なんか数えていてもどうにもならない。 俺は、薄闇でできた牢の床に座り込んだ。 そして、『ここで膝を抱えて身体を丸めたら、あの吹雪の日に何もできずにただ震えているばかりだった非力なガキの頃の俺と同じだ』と、そう思った。 水の滴る音は続いている。 だが、俺のいる牢の中に水が流れ込んでくるわけでもなく――いったい あの水音は何が目的で滴っているんだ。 本当に俺を狂わせるためなのか。 そんなことを考えて、意味や目的などない ただの自然現象にすぎないのかもしれないことに、俺は苛立った。 ハーデスは何を企んでいるんだ。 牢には特に水が増える様子もない。 水滴が、落ちる回数を増す以外には何の変化もない。 拷問もなく、湿気は身体に悪そうだったが、鍛え抜かれた聖闘士の身体にこたえるほどのものでもない。 俺をただここに閉じ込めておくだけで、いったい奴は何を得る? だいいち、瞬に接触しないという約束を、奴は本当に守っているのか? 「ハーデス!」 呼びかけても、冥界の王からの答えはなかった。 それが俺を不安にした。 俺の仲間たちやアテナはもちろんハーデスすらも、実は 俺を見ていないし気にかけてもいないのではないかと思えることが。 この閉ざされた空間を耐える際の いちばんの敵は孤独と虚無だと悟るのに、長い時間は必要なかった。 俺がここにいる限り瞬の身は安全だったとしても、その時間が長引けば、俺はやがて誰からも忘れ去られてしまうのではないか――という不安。 瞬の身が守られるのなら それこそ本望――と思ってしまうには、俺は若すぎ、そして欲がありすぎた。 飢えは感じない。渇きも同様。 しかし、不吉な薄闇と水音と孤独感に、俺の心身は蝕まれていく。 なにより この不可思議な牢獄で、俺は眠ることができなかった。 どれだけの時間が過ぎているのかということの判断もつかない薄闇の中で、俺はただ生きている。 あの水音の数を数えれば、ここでどれだけの時間が過ぎているのかを計ることができるのではないかと思い、水滴の音の数を数えることを始めた俺は、だがすぐにその行為をやめることになった。 最初に10秒おきに滴っていると感じた判断がそもそも正しかったのかどうかということにさえ、俺は既に自信を持てなくなっていた。 眠れなくても疲れない――それは、肉体的には全く苦痛ではなかった。 だが、精神的には――。 眠れないということが、これほど人間の心を不安なものにするものだとは、俺はこれまで考えたこともなかった。 俺は、自身の浅ましさを自覚させられ自己嫌悪を大きくすることにしか役立たないという理由で嫌っていた あの夢を、意識して脳裏に思い描こうとさえした。 何か考えていないと、気がおかしくなってしまいそうだったから。 瞬の白く細い指、肩、胸、脚、唇。 それを俺のものにしたくて、俺は瞬の身体を組み敷く。 うんと凶暴に、その肉を食いちぎるほどの勢いで、俺は瞬の肌に食らいつく。 瞬は泣いている方がいい。 泣いて恐がって、だが結局は、瞬を求める俺の気持ちに気付いて、自分から身体を開き、俺をせがんでくる――。 ああ、だめだ。 一向にその気にならない。 大体、そんなご都合主義の展開があり得るか。 瞬が自分から? 俺をせがんで? あの瞬が俺に『入れて』と言って泣きついてくるとでもいうのか。馬鹿馬鹿しい。 それでも、俺が救いを求める相手は瞬しかいなかった。 「瞬……」 薄闇の中で、瞬の名を呼んでみる。 声は出た。 それとも俺は、自分の声が出ていると思い込んでいるだけなのか――。 こんな不安と虚無をも、瞬なら耐え抜くのだろうか。 おそらく、瞬なら耐えるのだろう。 たとえ永遠に自分が忘れられた存在になっても、それで世界が救われるのならと、死より恐ろしい虚無にも、瞬ならきっと耐え抜く。 俺は、だが、世界なんかどうだっていいんだ。 俺はただ瞬が欲しかっただけだ。 瞬が共にいてくれるというのならともかく、ただ一人では、俺はこの孤独と虚無に耐えることはできない。 仲間に、世界に見捨てられたという不安が、俺を苛む。 見捨てられたも何も、俺は自分からここにやってきたというのに。 時間が経つにつれて、狂ってしまえたら楽かもしれない――と、俺はやがて己れの狂気を願うようになっていた。 消えない水の音。 止まらない水の音。 時間は確かに流れている。 「瞬……瞬、おまえなら、どうやって耐えるんだ」 俺が耐えることに意味はあるのか。 おまえは無事なのか。 俺を忘れてはいないか。 俺はおまえのために ここにいる。 おまえのため。おまえのためだ。 おまえがそのことを知っていてくれさえしたら、俺は10年でも20年でもここにいる。 おまえが俺のことを忘れてさえいなければ、100年でも1000年でも耐えてみせる。 瞬。俺の思いはおまえに届いているのか―― !? 俺は実際に声に出して叫んだのか、それともそれは俺の頭の中で作られた悲鳴にすぎなかったのか、俺にはわからなかった。 たとえ声に出して叫んでいたとしても、その声を認知してくれる者がいないのなら、そんな叫びは無いも同然のものだったろう。 変わらない薄闇の中にうずくまっている俺。 水の滴る音だけが、その場で活動している唯一のものだった。 他の何も、どんなことも知覚できないのに、時が流れていることだけは認めることができる。 これほど自分という存在の無為を思い知らされる状況もないだろう。 俺は肉体的に生きているだけ。 時は確実に過ぎていく。 1日、1ヶ月、1年、10年。 もう10年? 馬鹿な。 何もしていない人間の時間が、そんなに速く過ぎていくはずがない。 そう思いはしても、俺がこの薄闇の中に来てから、どれだけの時間が経ったのか、俺はおおよその見当をつけることさえできなかった。 何もせず、不安だけを囲っている人間の時間など、1日も100年も大差ない。 無意味無価値という点で、それらは同じものだ。 |