俺は瞬と共に元の世界に戻った。
――が、それですべてが元に戻ったわけではなかった。
俺は、一人では歩くことができなくなっていたんだ。
しばらくの間、場所の移動は車椅子に頼ることになった。

あの薄闇でできた牢獄の中で、俺は飢えや渇きを感じていなかった。
あの牢にいた間、俺の新陳代謝は完全に止まっていたらしい。
筋肉が失われたと思っていたんだが、それも錯覚にすぎなかった。
医者は、俺が肉体的に全く以前と変わらないことを保証してくれた。

肉体は衰えていない。
だが、俺は自力で立ち上がることも歩くこともできない。
俺の脚が動かなくなった原因はおそらく精神面にあると、医者は言った。
俺の中の何らかの思いが、俺に“元に戻ること”を禁じているのだろうと。
俺が元のように歩けるようになるには、その思いを取り除くか、リハビリを重ねることで、意思感情を無視した身体の運動機能の回復を図るしかないだろう、とも。

五体満足な聖闘士がリハビリとは。
医師の報告を聞いて泣き顔になった瞬に、俺は、
「命はあるから」
と言って、無理に笑ってみせた。
思えばそれが、俺が正気でいた最後の時だった。
俺は、あの薄闇の牢獄の中ではなく、あの牢獄を出た瞬間から、少しずつ狂い始めていた。


俺が誰のためにあの薄闇の中で過ぎていく時を耐えることになったのか、何も知らないはずなのに、瞬は 歩くことができなくなった俺のために泣いて泣いて、そして、不自由をかこつことになった俺の世話をしてくれた。
献身的――といっていいほどの熱心さで。

あの牢獄の中に我が身を置くことを決めたのは俺自身だ。
瞬に文句を言う筋合いはないし、瞬には事実を知らせない方がいいことも、俺はわかっていた。
瞬に責任を感じさせないため、瞬にハーデスの企みを知らせて怯えさせないためにも。
なのに俺は、どうしても瞬に知ってほしくて、瞬に知らせてしまったんだ。
俺が冥界の王ハーデスの手から瞬の身を守るために、瞬の身代わりになって、あの薄闇でできた牢獄に自ら 入っていったのだということを。

俺は車椅子に頼らなければ場所の移動が困難になったというだけで、自分を病人や怪我人の類だとは思っていなかった。
だから、俺の部屋は病室になったわけじゃない。
にもかかわらず、瞬は、それが病室のあるべき姿だとでもいうかのように俺の部屋に花瓶を持ち込み、そこに花が絶えることがないように気を配り続けていた。
花なんて、そんなもので人の心が慰められたり力づけられたりするものか?
俺は花なんかいらない。
花の代わりに、瞬にいつもそこにいてほしかった。
それが俺のために為される気遣いだということはわかっていたんだが、俺に背を向けて花の世話をしている瞬に苛立ち、俺は知らせてしまったんだ。
俺が歩けなくなったのは、いったい誰のためなのか――を。

「ど……うして、そんなこと……」
瞬は、俺の告白を聞くと、やっとその視線を花の上から逸らし、俺の方を振り返ってくれた。
「俺たちの立場が逆だったら、おまえは俺と同じことをしていただろう? だが俺は、おまえにはもう、そんな戦い方をしてほしくなかったんだ。我が身を犠牲にして自分以外の誰かを守ろうとする戦い方は、守られる側の人間を傷付ける」
「氷河……」
瞬は、これまでそんなことを考えたことはなかっただろう。
俺も考えたことはなかった。
天秤宮で瞬に俺の命を取り戻してもらった時、俺は毫も傷付きはしなかった。
――ただ嬉しかった。
瞬が俺のために命をかけてくれたことが。

車椅子に座っている俺に、瞬が苦しげな視線を投げてくる。
俺は口許に薄い笑みを刻んだ。
傍から見たら、それは、瞬の心を思い遣って意識して作った微笑に見えていたかもしれない。
「まあ、それはただの建前だ。俺はおまえが好きだった。俺は、俺からおまえを奪おうとする不届きな輩の企みを邪魔してやりたかっただけだ。人類の存続だの地上の安寧だの おまえの戦い方だの、そんな高尚な目的や理想のために あんなことをしたわけじゃない」
「……氷河」

瞬は、俺が建前だと言っていることを、俺の本音だと思っている。
瞬はそう・・だからだ。
瞬は、嫉妬なんて個人的な感情より、人類の存続だの、地上の安寧だの 仲間が傷付かないことだの、そんなことの方が大切なものだと思っているから、俺もそう・・なのだと思い込んでいる。
瞬の中で、俺は、人類の存続やら地上の安寧やらのために命を投げ出した崇高な人間で、そして、瞬に対する俺の好意は、その崇高な目的を後押しした ささやかな付帯条件にすぎない。
瞬はそう思うだろう。
だが、だからこそ、せめて俺の好意に応え報いたいと、瞬ならきっと考える。

「おまえを俺のものにしたかった。他の誰にも奪われたくなかった。俺がおまえの身代わりになると言った時、ハーデスは俺を嘲笑った。浅ましい欲望に囚われている俺に、他人の苦難を肩代わりすることなどできるはずがないと。あの牢獄から――出たいと言えばすぐに出してやるとも言っていたな。俺が音をあげる前におまえが来てくれたから、俺は醜態をさらさずに済んだわけだ」
軽い冗談口調でそんなことを言いながら瞬を見詰める俺の目は、爛々と輝いていたに違いない。
それが冗談ではなく――冗談に紛らせた本音だということを、瞬は気付いている。
瞬を見詰める俺の眼差し――瞬は、俺に怯えていた。

「僕に……僕を……」
「あの牢は、気が狂ってしまった方がどれだけ楽かと思えるくらい変化がなくて、俺は孤独と 世界中に見捨てられたんじゃないかという不安に苛まれて――最後には俺は、自分の中にある おまえへの欲望を感じることだけで、自分が生きていることを認識していたんだ」
「……」
どこまでが真実で、どこまでが嘘か。
瞬に語りかけている俺自身にも、それはわからない。
どこまでが瞬のための言葉で、どこまでが俺の本心なのかすら。

それが嘘でも真実でも、瞬が俺の言葉をすべて、瞬への思い遣りから出たものだと理解することだけはわかっていた。
瞬はそういう人間だ。
そういうふうにしか考えられない人間だから、平気で我が身を他人や世界のために犠牲にするし、瞬がそういう人間だから、俺は瞬に惹かれる。
俺には持ち得ない、人間への絶対的な信頼。
人は皆、互いに互いを思い遣って生きているのだと、瞬は信じているんだ。

瞬のそういう性癖を利用して、俺は瞬の同情を得ようとしている――のか?
瞬に負い目を感じさせ、そして、あわよくば その負い目に乗じて、瞬を俺のものにしようと企んでいるんだろうか、俺は。

瞬が俺を見詰めている。
瞳が涙で潤んでいる。
瞬は、だから――いつも涙で潤んだ目で世界を見ているから、この世界の何もかもが美しく見えているんだ、きっと。
だが、事実はそうじゃない。

「すまん。俺の目の届かないところに行ってくれ」
「ど……どうして」
どうしてだと?
おまえのためだと、俺は叫びたかった。
俺は狂いかけている。
卑怯な手段で、おまえを手に入れようとしている。
この狂気は、あの薄闇が生んだものじゃない。
あの薄闇が呼び起こしたものではあるかもしれないが、おそらく最初から俺の中にあったものだ。

「出ていけ!」
「氷河……僕はどうすればいいの。僕は氷河のためなら――」
「出ていけ! もう俺の側に近付くな!」
鋭く、だが力のない声。
瞬のためだと自分に言い聞かせながら、俺は、全く違うことを望んでいた。

瞬が もっと俺のために苦しめばいい。
瞬が俺に負い目を感じればいい。
俺はおまえのために歩くことができなくなった。
アテナの聖闘士がだぞ。
アテナの聖闘士が、走ることはおろか、自分の足で立ち上がることすらできなくなってしまったんだ。
俺のために苦しみ、俺のことだけを考え、さあ、そして、ハーデスにではなく、この俺にその心と身体を差し出せ。

胸中に 勝利を確信した狂気の叫びを響かせながら、俺は、戸惑い逡巡している瞬を車椅子の力を借りて 俺の部屋から追い出した。






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