瞬はその夜一晩 眠れなかったんだろう。
翌朝、いつもと同じ時刻に、赤い目をして瞬は俺の部屋にやってきた。
昨日と違うのは、その手に花を持っていないことだけで、まさか瞬がまた俺の部屋に来ることがあるなんて考えてもいなかった俺は、正直かなり驚いた。
それだけなら、瞬は病人の世話という義務を果たすために俺の部屋にやってきたのだと思うこともできたが、赤い目をした瞬は、突然 俺を戸惑わせるようなことを言い出した。

「来るなと言ったはずだ。車椅子に移るくらいのことなら、俺はおまえの力を借りなくてもできる」
冷たい口調で(瞬のためだ!)そう言った俺に、瞬は、
「ぼ……僕が氷河のものになるって、ど……どうすればいいの。教えて。その通りにするから」
と言ってきたんだ。
驚く驚かない以前に、俺は瞬が何を言っているのか、即座には理解できなかった(嘘だ。俺は快哉を叫んでいた)。
なんとか瞬の意図を理解できたつもりになって、その言葉を聞かなかったことにしようとした時も、自分は瞬の言葉の真意を取り違えているのではないかと疑っていた(白々しい。事態があまりに期待通りに進展していくことに狂喜していたくせに)。

「……馬鹿なことを」
「馬鹿なことじゃないよ。僕は氷河に元の氷河に戻って欲しい」
「おまえをこんなことで俺のものにして、俺が元に戻れるか」
「戻れるかもしれないでしょう。氷河が僕のために失ったもの、時間、強さ――その代償を少しでも手に入れられたら、氷河は元に戻れるかもしれない」
「……」
瞬は本気で――いや、正気で、そんなことを言っているんだろうか。
事があまりに俺の目論み通りに進んでいくことに、俺はさすがに不安を覚え始めた。

「僕は、氷河のためにするんじゃない。僕自身のためにするの。僕自身の負い目を少しでも減らすため」
「――」
瞬は、自分自身のためにそうするのだと言った。
俺が『“瞬のために”“犠牲”になった』と言い張っていたのとは対照的に。
そんな言葉が信じられるか。
瞬の言葉が瞬の言葉通りの意味であるはずがない。
瞬は、“俺のために”自分を“犠牲”にすることを決意して、ここに来たんだ。

「やめてくれ。俺は、これ以上、俺自身に失望したくない」
瞬の同情を求め、その同情につけ込もうとしていたくせに、いざそれを与えられるとプライドが傷付き腹が立つ。
俺は勝手な男だ。
瞬は食い下がってきた。

「氷河がどうして自分に失望することがあるの。これは僕がしたくてすることなのに。氷河の意思は関係ないことだよ」
「“おまえが俺のものになる”行為が、俺の意思を無視してできることだと思っているのか。だとしたら、それはおまえの心得違いだ。出ていけ」
「だ……だから、教えてって頼んでるの! 氷河……は、僕のために僕の身代わりになったって言ったじゃない。僕に負い目を負わせるだけ負わせて、その償いをする機会も与えてくれないなんて、そんなの卑怯だよ!」

それは瞬なりの――瞬が懸命に考えた俺への挑発だったのかもしれない。
俺とは逆に、自分のためと言い張って、その実 瞬は、俺の狂気という海獣にその身を捧げようとしている。
俺は、瞬を追い返そうとした。
「おまえは、俺に犯されてもいいと思うくらい、俺を好きなのか」
「え……」
そんなことを問われるとは、瞬は思っていなかったらしい。
「あ……の……」
瞬はうろたえて、結局 その顔を俯かせた。

“自分のために”好きでもない男に犯されにきたのか、瞬は。
同情や憐憫で――瞬は、俺をそんなもので片付けられる男だと思っている。
俺は瞬の嘘に腹が立ち、ひどく意地悪な気分になった。
「好きでもない男に抱かれる気か」
「ぼ……僕は……」
「いい覚悟だ。知っているだろう。俺はいつも裸で寝てるぞ。おまえは、自分の服くらい自分で脱いだらどうだ」

まさか瞬がそんなことをと、その時にも俺は瞬の決意のほどを疑っていた。
だが――。
俺の視線を気にして おどおどしながら、瞬は身に着けていたシャツのボタンを本当に外し始めた。
もたもたしながら――恐ろしく長い時間をかけて、瞬は本当に俺の目の前で全裸になってしまったんだ。
俺は、まるで思わせぶりなストリップショーでも見せられている気分だった。

下半身不随というと、大抵は性交も不可能になるものらしいが、あれはなぜなんだろうな。
性器は不随意筋だろう。
実際、歩くことのできない俺の性器は、瞬のストリップを見せられているうちに――瞬を俺のものにできるかもしれないという期待と欲のために屹立して――いや、反り返っていた。

「そんなに離れていてできることだと思うか」
俺のいるベッドから5メートルも離れた場所に立っている瞬を、俺は挑発した。
俺の声は 掠れ上擦っていた――と思う。
瞬はといえば――俺の前に裸身をさらしていることに羞恥を覚える余裕すらないらしく、その頬は蝋人形のように蒼白だった。
たっぷり30秒ためらってから、瞬が俺のベッドのすぐ横にまで歩み寄ってくる。

「それで?」
俺が 青ざめた頬の瞬を揶揄するように そう言ったのは、今ここで事は成らないと確信していたからだった。
言葉で瞬をいじめることはできても、俺は思いを遂げることはできない。
好きでもない男に、瞬が本気でその身を任せたりするものか。
瞬は最後には俺を拒むだろう。
そうして、俺は瞬に愛されていない自分を自覚せざるを得なくなり、みじめな気分だけを味わうことになる。
その意趣返しに少しばかり瞬をいじめることくらいは許されてしかるべきだ。
そう思っていたから、俺は瞬に対して冷酷になれていたんだ。

瞬は、俺の隣りに横になろうとしたんだろう。
俺の身体を覆っている毛布を取り去り、そして、そこにあるものを見て息を飲んだ。
あまりに正直で あからさまなそれに、恐れを為したのかもしれない。
尻込みするように、瞬は、一度は手に取った毛布をシーツの上に落としてしまった。

「さあ、俺はこの通りだ。これをおまえのどこに入れるのか知っているのか」
「あ……あ……」
瞬の瞳に涙がにじんでくる。
ここで泣き出すくらいなら、最初から できもしないことを口にしたりしなければいいのに。
それを偽善というんだ。
内心で毒づきながら、俺は、瞬がどういう言い逃れを使って この場を切り抜けようとするのかと、かなり意地悪な気分で瞬の動向を見守っていた。
――が。

瞬は何も言わなかった。
『やはり、やめよう』とも『頼むから許してくれ』とも。
それどころか。
瞬はあろうことか俺のベッドに上がり、俺の上に跨ろうとしてきたんだ。
俺の、そんな状態にあるものを見せられたら、瞬は逃げ出すに違いないと思っていたのに。
瞬は本気なのか――?
だとしても、この体勢でいきなり俺をその中に収めるなんて無理な話だ。

俺は――迷った。一応。
瞬の覚悟を認めて、『そんなことはしなくてもいい』と言ってやるべきか、あるいは、このまま瞬を俺のものにしてしまうべきかを。
迷って、俺は、結局、自分の欲に屈した。
性欲という欲にではない。
夢の中にいる時ならともかく、これほど明瞭に覚醒している時に自分の性欲を制御できないほど、俺は動物的な男でもなかった。

俺を圧倒した欲。
それはおそらく、瞬を他の誰にも渡したくないという独占欲だった。
既得権を手に入れて安心したいという保守的な欲もあったかもしれない。
ここで瞬を俺のものにしてしまえば、少なくとも俺は、瞬の最初の男になれる。
同性の瞬に対して そういう言葉を用いるのもおかしな話だが、実際に俺はそういう言葉で そういう思考を形作ったんだから仕方がない。

俺は肘を使って、ベッドに上体を起こした。
「そういう即物的で趣のない真似はやめろ。おまえには、せめてキスくらいしてからと考える情緒の持ち合わせはないのか」
「あ……」
瞬は、それを俺からの要求――命令と思ったらしい。
俺の身体の両脇に手をついて身体を前進させ、瞬は俺の唇に その唇を重ねてきた。
きつく引き結ばれた唇。
瞬は、歯の付け根が合っていなかった。
極寒の氷原に防寒具もなく放り出された子供のように、瞬の身体はがくがくと震えている。

俺を長いこと悩ませてきた、あの夢。
あの夢を現実のものにすることができるのなら、俺は、瞬がこの行為に一生消えない嫌悪感を抱くことになるような 無体を働くわけにはいかなかった。
せめて、それは不快なだけの行為ではないと瞬に思わせなければならない。
――そんなことを、俺は優しさや瞬への思い遣りから考えたわけじゃなかった。
俺は、そうすることが俺の得になると考えたんだ。
瞬に向かう俺の欲は、一度だけ瞬を俺のものにすれば それで満たされる類のものじゃなかったから。
その行為を気持ちのいいことだと瞬が認識し、できれば瞬がそれを恒久的に求めるようになってくれれば――そうなってくれるのがいちばんいい。

ここまでは、すべてが俺の思惑通りに運んできた。
最後の最後でしくじるつもりはない。
俺は、瞬の剥きだしの肩に手をのばしていった。
その時の俺の目が、冷ややかに冷めていたのか、あるいは抑え難い期待と欲望に熱く燃え上がっていたのか、それは俺自身にもわからなかった。






【menu】【II】