傷付きたくないからなのか、傷付きたいからなのか――。 俺と身体を交える夜を重ねるうちに、瞬は俺に貫かれるたび陶然とした表情を浮かべるようになっていた――いつのまにかそうなっていたことを、俺は確かめることができた。 瞬の喘ぐ声には なやましい艶が混じり、達する時の声は歓喜を帯びている。 清らかな瞬。 清潔で綺麗で哀れで、だが、淫らな瞬。 ハーデスは、身も心も清らかな瞬を我がものにするのだと言っていた。 だが、瞬はもう そんなものではない。 瞬は、好きでもない男との交合に快感を覚え喜ぶような人間になりさがり、その姿は美しくはあるが清らかではない。 俺以外の者の目には、そう映るはずだ。 だから――これでハーデスはもう瞬に執着することはあるまいと、俺は二重の意味で心を安んじることができたんだ。 瞬は、俺にとってだけ清らかな人間になり、俺から瞬を奪おうとするものはもう誰もいない。 俺は俺の欲で瞬をそういうものに変えてしまったというのに、そうなってもまだ 俺自身のことしか考えていなかった。 だからだったんだろう。 もうハーデスに瞬を奪われることはないという安堵の念が束の間のものだったのは。 俺はすぐに自分のしでかした失敗に気付いた。 俺の脚を動かなくしていた精神的要因というのは、おそらく、そうすることで瞬に負い目を負わせ、瞬を俺に縛りつけておきたいという卑怯な欲望だった。 その欲は、瞬を思い通りに愛撫したいという俺の別の欲に負け、俺の身体は以前の運動能力を取り戻すことになった。 そうなれば当然、瞬の負い目は消滅することになる。 初めて瞬の陶然とした表情を堪能しながら二人の交合を成立させた翌朝、俺は、後悔と、そして大きな不安に襲われた。 俺に対する負い目がなくなった瞬は、もう俺の許に来てくれないのではないかという不安に。 俺の愛撫や俺を受け入れることに、どれほど瞬が夢中になっていたとしても、俺の脚が元の通りに動いていることに瞬が気付かぬはずがない。 俺は、その朝、『今夜も来い』と瞬に言うことができなかった。 だが、その夜も瞬は俺の部屋に来てくれた。 「来いと言われたわけでもないのに、おまえも律儀だな。そんなに俺が欲しいのか」 昨夜までと同じように俺の部屋に現われた瞬の姿を認めた時、俺の心臓がどれだけ鼓動を速め、俺の心がどれほど大きな安堵を覚えたか。 皮肉な言葉を吐き出しながら、瞬の負い目の深さに、俺がどれだけ感謝したか。 「まあ、おまえがしたいというのなら相手をしてやってもいいが」 瞬は、俺の憎まれ口には何も答えなかった。 瞬が気付いていないはずはないと思いながら、それでも俺は用心して(あるいはそれは臆病のせいだったかもしれない)あえて瞬の前に立つことはせず、ベッドの端に腰をおろしたままで、瞬に手を差し延べた。 瞬が、俺の手に白い指を預けてくる。 そうなってから今度こそ完全に安堵して、俺は瞬の身体を抱き寄せたんだ。 その時だった。 もう二度と聞かずに済むだろうと思っていたあの不吉な声を、俺が再び聞くことになったのは。 『そなたは そろそろ瞬を解放すべきではないか』 “身も心も清らかな瞬”を求めていた者の声。 それがどこから響いてくるのか、俺はすぐにはわからなかった。 瞬は俺の胸の中にいる。 ハーデスの声は、瞬の身体を借りて発せられているのではない。 その事実は何よりも俺の心を安んじさせたが、この状況はもちろん、それくらいのことで安心していいことではない。 「俺が自分から求めたわけじゃない」 虚空に向かって、俺は苛立った声を投げつけた。 俺を苛立たせたのは、ハーデスの言葉ではなく、まだハーデスが瞬に執着している、その事実だった。 『そう仕向けたのはそなただろう。これでは瞬があまりにも哀れ。瞬は余がもらっていくぞ』 ハーデスはもしかしたら、夜の闇の中にならどこにでも潜むことができるのかもしれない。 ハーデスの声は、夜の俺の部屋のどこからか聞こえてきたが、今の奴は実体と呼べるものを有してはいないようだった。 「瞬はもう汚れきっている」 『そのようなことはない。瞬はますます美しく清らかになっている。いっそ見事と言っていいほどの犠牲的精神を体現しているではないか』 「犠牲? 清らか? 好きでもない男に貫かれて喘いでいる瞬のどこが清らかだ。今の瞬を動かしているのは ただの肉欲だろう」 そうではないことを願っているのに、俺は、自分の願いとは裏腹な言葉を口にしないわけにはいかなかった。 瞬をハーデスに奪われてしまわないために――瞬は汚れたものでいなければならないんだ。 『その理屈でいくと、好きな男に抱かれて歓喜するのは、肉欲よりも愛情の勝った行為だということになるのではないか?』 ハーデスは何を言っているんだ? それではまるで瞬が俺を好きでいるみたいじゃないか。 そんなことがあるはずがないのに。 「あいにく瞬は俺を嫌っている――いや、蔑んでいる」 だが、だからといって、瞬を他の男に渡す気はない。 俺は、俺の胸の中にいる瞬を抱く腕に力を込めた。 瞬は、俺の言動不一致に困惑しているだろうか。 俺自身は矛盾のない行動のつもりでも、瞬にはそれは矛盾を極めた行ないに思えているだろう。 いずれにしても、瞬がどう思っているのか、確かめる余裕は俺にはなかった。 ともかく、瞬は俺の腕の中にいる。 ハーデスの気配を窺うことに、俺は意識のほとんどを集中させていた。 『そなたが瞬の心をどう解していようと、余には関わりのないことだ。ともかく瞬は余がもらっていく』 「そうはさせるかっ!」 胸に瞬を抱きしめたまま、その場に立ち上がってしまったのは迂闊だったかもしれないが、おそらく それは敵の気配に臨戦体勢をとってしまう聖闘士としての条件反射のようなものだった。 その行動は俺の身体が許に戻っていることを瞬に確認させる愚行だと、理性がすぐに俺に知らせてきたが、理性というものはいつも反射や本能に一歩遅れて登場するものだ。 ハーデスはもちろん、俺の愚行を見逃すようなことはしなかった。 『既にそなたの身体は元に戻っている。にもかかわらず、瞬の負い目を利用して瞬に贖罪を続けさせようとは さもしい限り』 その言葉は、俺にではなく、俺の腕の中にいる瞬に聞かせるためのものだったろう。 『このような下劣な男、そなたが心にかけてやる必要などないぞ、瞬。この者の身体には最初から何の障りもなかったのだ。そして、この者の心は最初から腐っていた。そなたが責めを負うようなことは何もない』 ハーデスの言葉は、紛れもない事実を語るものだった。 その事実を、瞬はどう受けとめるのか――。 俺は初めて、俺の腕の中にいる瞬に視線を落とした。 その時 俺の胸中は不安を通り越した恐れでいっぱいで――そうなって初めて俺は、たった今まで自分が瞬の目を見ることを恐れて、無理にハーデスの存在に意識を向けていたことに気付いた。 『そなたの清らかな心を利用し、逆手にとって、そなたの身体に汚らわしい欲望を吐き散らす男、殺しても飽き足らぬ』 その通りだったから、俺は何も言えず唇を噛みしめた。 わかっている。 俺が瞬の心を利用して、瞬の身体を手に入れたことは。 だが、他にどうすればよかったんだ。 俺は瞬を誰にも奪われたくなかった。 そして、瞬を俺のものにしたかった。 そうなっても当然なだけのことを俺は瞬のためにしたし、そうなっても当然なくらい瞬に向けられる俺の心は強い。 俺は、俺が瞬のためにしたことへの報いを求めただけだ! 言葉にはせずに、俺は必死になって自分が為したことへの正当性を訴えた。 それを言葉にしなかったのは、こんな卑怯な手で瞬を自分のものにした俺にもまだ、少しはまともな判断力が残っていたということだったろう。 俺の為したことに正当性など毫もないことを、俺は本当は知っていた。 俺の求める報いが“当然のもの”かどうか、それを決めるのは俺ではなく瞬だ。 瞬が“当然”と思わなければ、それは俺の我儘でしかない。 そして、俺が瞬に加えた暴力を、瞬が“当然のこと”と思うはずがなかった。 だというのに――。 |