ハーデスの気配が消えて初めて、俺は俺たちがいた部屋が、人の心を弱くする あの薄闇に覆われていたことに気付いた。 俺を狂わせることになったあの薄闇も、瞬には影響を及ぼすことはできなかった――ということらしい。 「消えた? 諦めたのか……?」 闇の気配の消えた元の――俺の部屋。 俺は相変わらず瞬を抱きしめていて――俺の呟きを聞くと、瞬は はっと我にかえったように俺の腕からすり抜けた。 僅かに眉をひそめた俺に、瞬が、ひどく感情の読み取りにくい笑みを向けてくる。 「そりゃあ、諦めたくもなるでしょう。諾々と神の支配を受ける従順な人間と思っていたものが、とんでもない はねっかえりだったんだから。幻滅しない方がおかしいよ」 まるで、俺こそが瞬に幻滅してしかるべきだというような顔をして、瞬が俺を見詰めてくる。 瞬にそういう眼差しを向けられることで、俺は、突然その気配を消してしまったハーデスの気持ちを理解することができた――わかったような気がした。 「奴は――諦めていない。おそらく。むしろ、以前よりおまえへの執着を強くしている」 「不吉なこと言わないで。どうしてそんなふうに思うの」 「今の俺がそうだから」 「氷河……」 瞬は――瞬は、俺を傷付ける。 瞬は、ハーデスを傷付ける。 それでも俺が瞬を求めずにいられないのは、俺が瞬を傷付けた時、瞬が俺を許してくれることを確信できているからだ。 俺は、俺を許してくれる人を愛し求める。 だから、俺は、俺を傷付ける瞬を許し求める。 これは さもしい打算だろうか。 あるいは、人は誰しも傷付け合わずにはいられないものなのだからという妥協、諦念のようなものだろうか。 いや、そうじゃない。 それは人間の弱さを許し愛する、優しさというものだ。 そして、おそらくそれは“清らか”であることよりも価値がある。 たからハーデスは突然、その気配を絶ったんだ。 奴がこれまで瞬に求めていたものとは別の――別の意味で瞬を求める強い気持ちが生まれてきて、その気持ちに戸惑ったから。 瞬はおそらく、ハーデスをも許す優しさを持っている。 ハーデスは、瞬を諦めないだろう。 今度は瞬に、“清らかさ”ではなく“優しさ”――それは“強さ”と同義のものだ――を求めて。 だからといって、瞬がハーデスに屈することがあるとは思えないが。 「すまん」 「氷河は、僕に謝らなければならないようなことはしていないよ」 「俺はおまえの優しさにつけ込んだ」 「そんなことないよ。僕は、ああすることを自分の意思で決めた。氷河は僕がこの世界を守りたいと思う理由の一つだから、だから僕は氷河を失いたくなくて足掻いたの。他にどうすればいいのかわからなかった。僕の浅慮が氷河を傷付けたなら……ごめんなさい……」 瞬は俺に謝罪の言葉を告げ、俺の前で項垂れた。 謝らなければならないようなことを、瞬は何ひとつしていないというのに。 俺は、瞬だけが生き延びてくれれば世界は滅んでもいいと思っていた。 瞬は、俺のいる世界だから、この世界を守りたいと言ってくれた。 愛する者の幸福を心から願うなら、どちらが正しい愛し方なのかは考えるまでもないことだ。 他者がいない孤独な世界で、たった一人で生きることを望む人間などいるはずがない。 俺が瞬のために為したつもりになっていたことは衝動的で独善的で――だから俺は結局 自分の欲に勝てなかった。 今も、瞬の優しさに甘え許してもらおうとしている。 「俺はおまえと対等な仲間同士でいるつもりだったが、それも思い上がりにすぎなかった」 『俺は最初からおまえにふさわしい相手じゃなかったんだ』 認めなければならないその事実を、俺ははっきり言葉にしてしまうことができなかった――俺自身の無様な弱さが悲しすぎて。 俺が言葉にしてしまえなかった俺の考えが、瞬にはわかってしまったらしい。 少し困惑したように、瞬は首を横に振った。 「氷河は僕を美化しすぎてるよ。僕は、氷河がいつも僕を見てることを知っていた。何を求めているのかも薄々察してた。夜の庭は、眠れないときの僕の定番の散歩コースで――」 「知っていた?」 俺は驚いた――というより、瞬のその言葉を奇異に思った。 瞬は勘もいいし、俺なんかよりは よほど確かな洞察力も持っている。 瞬が、俺の浅ましい欲心に気付いていたとしても、それはさほど不思議なことじゃない。 だが、俺の胸中にあるものを知っていたのなら、瞬は俺を忌避して当然だったのに、夜の庭で瞬に出会ったあの時まで、俺は自分が瞬に疎んじられているなんて考えたこともなかった――感じたこともなかった。 瞬はなぜ――俺を避けなかったんだ。 俺が奇異に感じたことへの答えは、瞬が教えてくれた。 それは俺には信じ難い言葉だった。 「もっとも、僕を悩ませていたのは、僕は男なのに、どうして氷河に抱きしめられてる夢ばかり見るんだろう――ってことだったけど。僕は、氷河に愛されたり求められたりすることばかり望む甘ったれなのかもしれないって、自己嫌悪に陥ってた」 「……」 俺は、自分が急に日本語を理解できなくなったような混乱に陥ったんだ。 瞬が――まさか。 だいいち、それなら、なぜ瞬はあの時――。 「あの時――俺が……おまえは俺を好きなのかと尋ねた時、おまえは答えてくれなかった」 「それは……だって、は……恥ずかしくて……。あの……あの夢を思い出したから」 瞬の頬が薄い血の色に上気する。 そんなことで――そんな詰まらないすれ違いのせいで、俺は自暴自棄に陥り、そのあげく瞬にあんな無体を強いることになったのか? 「僕は卑怯なの。僕が誰かを傷付けた時、その人に許してもらいたいから、僕も僕を傷付けた人を許す。人に傷付けられるのが恐いから、先に自分から傷付いてみたりもする。それだけだよ」 「おまえはそんな卑怯者じゃない。それ以前に、世の中には、自分を傷付けた相手を許せない人間の方が多いじゃないか」 「そんなことない。誰かの犯した過ちを許し受け入れることを、人は誰だって当たり前のことのようなに実行してるじゃない。孤独は何よりも恐ろしい恐怖だもの。本当に――氷河は僕を美化しすぎなの」 「……」 そうだろうか。 この世には、やはり、人と交わって誰かに傷付けられることより、誰にも傷付けられない孤独の方を選ぶ人間の方が多い――と、俺は感じる。 そして、瞬は――瞬は、たとえば、俺を狂わせたあの薄闇の牢の中ででも 孤独に耐えてしまうような気がする。 それはおそらく、瞬が人間というものを信じているからだ。 人間は愛によって生き、また生かされてもいると、瞬は信じている。 だから瞬は、人の世から隔絶された空間に一人閉じ込められることになっても、真の孤独には至らない。 実際に、人は瞬が信じている通りのものなんだろう。 ただ、ほとんどの人間はその事実に気付いていないから――人はみな心弱い存在でもあるんだ。 「人が……傷付いても、傷付けられても――それでも一人ぽっちでいるよりいいって思ってしまうのはなぜなんだろうね」 「人はそういうものだから―― 一人では生きられないものだからだろう」 「うん……」 許し、愛すること。 それは、人間が人間の生を美しく飾り立てるために作り出した空虚な美徳などではなく、人間が生きていくために何よりも必要なものなのかもしれない。 その気持ちを持てない人間は――少なくともその人間の“心”は――死んでいくしかないんだ。 俺は死にたくない。 瞬が生きている限り生きていたいし、生きていられる。 瞬は――瞬もそう思ってくれているんだろうか。 俺が瞬を傷付けたこと、これからも傷付け続けるだろうことを、瞬は許し、そんな男を好きでいてくれるんだろうか――? もし瞬がそんな恵みを俺の上に垂れてくれるのなら、俺は――俺も――瞬と瞬のいる世界のすべてを許し愛することができるような気がする。 一人きりでは自分の心の生を保つこともできない人間という弱い存在は、そんなふうにして生きていくしかない。 そして、そんなふうに生きていられることが、人間にとっての幸福なんだろう。 「瞬、俺は――」 「なに?」 これからも俺を許し愛してくれと大仰に言われても、瞬は困るだけだろう。 俺は、瞬にそう告げる代わりに、俺らしい軽口で瞬に許しを乞うた。 「いや……。俺は、おまえをしゃぼん玉を扱うように優しく抱くこともできるぞ。試してみないか」 「え……」 瞬がその頬を真っ赤に染める。 「嫌か」 「ううん。素敵」 瞬が 「ハーデスも氷河みたいに気の利いたことを言って誘ってくれたら、僕も少しは迷っていたかもしれないのに」 そして、瞬は、瞬らしからぬ冗談を言った。 実体を持っていないらしいハーデスには、そんなふうに瞬を誘うことは不可能だったろう。 俺は愚かで心弱い人間だが、ハーデスよりは幸運な男であるらしい。 Fin.
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