俺がなんとか我にかえることができたのは、俺と同じように俺の目を見詰めていた客人が、急に瞬きをすることを思い出したように、その睫毛を震わせたからだった。
おかげで俺は、今 俺の目の前にいる少年が悪魔でも天使でもない人間だということを思い出すことができたんだ。
「で、俺に『お願い』というのは何だ。君の兄上は、国いちばんの剣の使い手だろう。俺に何を『お願い』することがある」
客人に魂を半分奪われかけていた俺は、かなり無理をして――愛想を示すのが面倒だからではなく、奪われかけていた意思を取り戻すために懸命に自分を鼓舞して――ぶっきらぼうな声と言葉を作ることになった。
客人の身内を褒めるつもりは さらさらなく、一般に流布されている噂を告げただけ。
この少年の兄が国いちばんの使い手だという噂が事実なら、彼は、富裕でない平民から勝利を買う必要もないはずだ。

その時俺は初めて気付いたんだが、俺は客人の用件――『お願いがある』という用件――を聞いた時から、客人の『お願い』とは御前試合での勝利を買うことだと決めつけていたらしい。
“国いちばんの使い手”と言ったところで、それは貴族の手慰みに過ぎず、公平な場で互いにハンデなく戦えば、勝つのは当然俺の方だと、俺は信じていた。
「君のお願いが何なのかは知らないが、国王の前で『国いちばんの使い手』と立ち合い勝利すれば、俺には最高の栄誉が与えられる。これは貴族ではない俺には、滅多にない機会だ。おそらく、次の機会もない」

「栄誉があなたに何をもたらすとお思いですか。王は、もちろん勝者には褒賞を与えるでしょうが、もしかしたらそれは月桂樹の冠ひとつだけかもしれません」
既に富を持つ貴族が勝利という栄誉を金で買いにきたのだと 俺が決めつけていたように、客人――瞬――もまた、人に誇れるほどの財を持たない平民が欲するのは栄誉ではなく実利の方だと思い込んでいたのかもしれない。
綺麗な顔をした客人は、そういう物言いをした。
俺は、自分の思い込みを棚にあげて、少々落胆してしまったんだ。
これほど特異な空気をまとった人間が、貴族としては実にありきたりな偏見を持っているという事実に。

驕った貴族の思い込みを否定しても、彼は平民の言葉など信じないだろう。
稀有な客人に速やかにお引き取り願うために、俺は彼の期待に沿う台詞を提供してやった。
「栄誉には実益が伴う。この国いちばんの使い手のサロンと、何の肩書きもない ぽっと出のよそ者が開いているサロンのどちらかを選ぶことになったら、誰だって立派な肩書きつきの方を選ぶだろう。俺がその栄誉を手に入れれば、俺の剣術サロンには剣を習いたいという貴族の子弟が詰めかけてきて、俺の懐には大金が転がり込むというわけだ」
「あなたの欲しいものが名誉に伴う実益の方なのであれば、僕の頼みを聞いてくださったら、望むだけのお金を差し上げます。当家の財力はご存じかと思うのですが」
「あまりの金持ち振りに恐れを為した前国王が、反逆者の汚名を着せて都から追放するほどの大金持ちだそうだな」
「……」

俺は公爵家を非難するつもりではなく、事実を告げただけだったんだが、俺の言葉を聞いた瞬は俺の前でふいに黙り込んだ。
前国王が追放したのは前公爵――つまり瞬の父親――で、前国王はその家族も追放刑にしたということだったから、瞬もまた父に着せられた濡れ衣の屈辱を共に味わったということになる。
公爵家が追放になったのが10年前。許されて都に帰還したのが5年前。
瞬は幼い頃の数年間を、罪人の子として生きたわけで、それはあまり楽しい思い出ではなかったんだろう。

「前国王は、公爵家の財力というより、父が民衆の支持を得ていたことが気に入らなかったのだと思います。前の国王はあまり国民のための福祉活動に熱心ではなかったので、民衆は王ではなく父の許に嘆願に来ることが多く、父はその嘆願に応えて病院や橋を建てることをしただけだったんですが――」
前公爵には、もちろん反逆の意思などなかった。
前国王が崩御するや、現国王は流刑地に送られていた公爵家の家族を都に呼び戻し、元の地位に復した。
前公爵は、公爵家の名誉回復の前に 流刑になった島で反逆者の汚名を着せられたまま亡くなっていて、爵位を継いだのは その長子と聞いている。
つまり、瞬の兄だ。

そういう経緯があったから、国民の間での公爵家の人気は絶大で、明日の御前試合でも、平民の代表者である俺が瞬の兄に勝利しないことを望んでいる平民は多いようだった。
俺は、よそ者だしな。
だが、まあ、俺には俺の欲しいものがある。
どれほど金を積まれても、俺は明日の御前試合に負けるわけにはいかなかった。
裏取引では金しか得られない。
金を手に入れるだけなら その方が確実でも、自分の力を信じている人間がそんな話に乗るわけがない。
そして、俺は俺の力を信じていた。

「今は莫大な財産を取り戻し、人望もある公爵殿が“国いちばんの使い手”の評判を失ったとしても、大した打撃ではないだろう。対照的に、俺は、剣の腕の他には何も持っていない平民だ。俺は、君の兄上を倒して、栄誉と金と社会的信用を手にする。平民に見ることのできる夢としては、まず最高の夢だ。君の兄上に御前試合で勝利すれば、俺はその夢を現実のものにできる」
「……」

俺の語る俺の夢を、瞬はどう思ったのか。
ケチな夢と思ったか、そんな夢しか見ることのできない平民の俺を哀れと感じたのか。
瞬は言葉を途切れさせ、無言で俺を見詰めてきた。
俺の魂を吸い取ってしまいそうな 緑色の瞳に、切なげな深みをたたえて。






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