「僕は、今日は兄の使いで来たんです」
俺の心の叫びは、瞬には届かなかったらしい。
瞬には瞬なりの道理があり、その道理は、『こういった場合には、一度決意したことを翻しても問題はない』と判断したものらしかった。
瞬は、自分が俺にきっぱりと告げたあの言葉を すっかり忘れた様子で、今日の瞬の用件を俺に知らせてきた。

「兄の使い? あの暑苦しい顔の男が俺に何の用があるというんだ」
『瞬はそなたに譲ろう』という糞親父の言葉を不愉快そうに聞いていた瞬の兄の様子を思い出して、俺は――俺こそが不愉快になった。
瞬の兄がもたらす用件など、どうせ俺にとっては有難くも何ともないことに決まっている。
俺の推察はもちろん当たっていた。
瞬の兄とやらは、実に無意味かつ今更なことを、俺に要求してきたんだ。

「兄は、怪我が治ったら、ぜひ氷河と立ち合いたいと言っています」
「何のために」
「兄より弱い男と深い仲になることは許さない――と言われました」
「へ?」
何を、瞬の兄は言い出したんだ?
瞬の兄とも思えない、あの暑苦しい顔をした男に、そんなことを言う権利があるのか?
瞬は独立した意思と自我を持ち、その意思で自分の身の振り方を決めることのできる一人の個人だ。
たとえ実の兄といえど、瞬にそんな指図をすることができるわけがない!

「王がいいと言ったんだぞ! だいいち、こういうことで最も大事なのは、おまえの気持ちだろう! おまえはどうなんだ。おまえは俺が嫌いなのか!」
俺は、つい瞬に怒鳴り返してしまっていた。
俺は、瞬の気持ちなんか訊くべきじゃなかった。
そんなことはせず、俺自身の気持ちを切々と瞬に訴えるべきだった。
瞬の気持ちを問い質そうとなんかしたから、俺は、
「僕は幼い頃からいつも兄に守られてきた不甲斐ない弟です。兄がいなかったら、僕はきっと あの島で死んでいた。兄には逆らえません」
――なんて 詰まらないことを言う機会を瞬に与えてしまったんだ。

「瞬……」
「兄の腕が完治するまで1ヶ月ほどあるんですが、それまでに氷河には兄より強くなってもらわなければなりません。僭越ながら、僕が氷河に剣の指導をさせていただきます」
「……」
瞬の馬鹿な兄だけならまだしも、瞬までがいったい何を言い出したんだ?
俺に剣を指導だと?
俺の疑念を可憐に無視し、瞬は大真面目な顔で どんどん話を進めていく――全く色気のない話を。

「氷河の戦い方は実戦向きであるにもかかわらず、とても美しくて、見惚れるくらいなんですが、左からの攻撃に対する防御が甘すぎるんです。利き腕は右ですが、兄は左でも相当戦えます。兄は伊達や酔狂で左で戦うと言ったわけではないんです。氷河は左からの攻撃に対して、決まったパターンでしか剣を払えない。まず その弱点を克服しないと、氷河は兄には勝てません」
その弱点を克服する方法を、瞬が俺に“指導”してくれると?
左からの攻撃を払う際の防御を、瞬が俺に指導するということは、つまり瞬も――
「おまえも――左でも戦えるのか」
「当然です」
軽く言ってくれる。
確かに世界は広く、上には上がいる。
俺は、自分のうぬぼれを地の底より深く後悔した。

「剣は持参しました。僕の恋の成否がかかってますから、今度は手加減なしでいきます」
「……」
いったいこの世界はどういうことになっているんだ?
手加減なしでいく?
前に手合わせした時、瞬はまだ本気ではなかったということか?

それが ありえないことじゃないから、俺は反駁の言葉を見付け出せなかった。
沈黙した俺を見て、瞬は、自分の宣言が俺のプライドを傷付けてしまったのだと考えたらしい。
瞬は付けたりのように、
「氷河もあの時には僕に怪我をさせまいとして、気を遣ってくれていたでしょう?」
と言ってくれた。

それは事実だ。
確かにあの時、俺は――俺も――全力を出していたとはいえない部分があった。
だが、明確に『手加減している』と意識していたわけじゃない。
――そうじゃなかった。

「大丈夫。氷河なら防御の型なんて、すぐにマスターできます。僕は兄の戦い方の癖も弱点も知ってますし――。僕が氷河を国いちばんの使い手にしてみせます」
瞬が自信満々できっぱりと言い切る。
そう言われて俺は初めて――今頃になってやっと――その事実に気付いた。
俺をこの国いちばんの使い手にしてみせると言い切る瞬。
現在 世評では“国いちばんの使い手”と言われている男の癖も弱点も心得ていると言ってのける瞬。
実は、その瞬こそが、この国いちばんの使い手なんだということに。

瞬の華奢な身体を見る限りでは、それは驚愕せざるを得ない事実だったが、俺はその事実を否定しようとは思わない――否定できない。
もちろん、瞬が俺より強いからといって、瞬への好意を失うほど、俺は詰まらないプライドにこだわる男ではないつもりだ。
しかし――。

「いや、さしあたって俺が使いたいのは自前の剣の方で――」
しかし、今の俺が何よりも強い思いで求めているものは、自分の剣の技術向上なんかじゃないんだ。
話を元の線に戻したくて、俺はわざと下卑たジョークを言い、右手の親指で自分の股間を指し示した。
何でもいい。
瞬が今、色気のない剣のご指導話をやめてくれるのなら。
そして、今 俺が狂おしいほどに求めているものが何であるのかを、瞬がわかってくれるのなら。

藁にもすがる思いで、俺はその直截的に過ぎるジョークを口にした。
俺がその下品なジョークを言い終わる前に、目にもとまらぬ速さで鞘から抜かれた瞬の剣が、俺の顎下5ミリのところにぴたりと据えられる。
さすがに素早い。

「氷河のご自慢の剣は、今はしまっておいてください。兄に勝つまでは」
「瞬……!」
瞬は本気で それまで俺に耐えろと言っているのか !?
昨夜一晩が100年にも思えた俺に、あと1ヶ月――3000年を待てというのか !?
そんなに長い間待たされていたら、俺の自慢のものも化石になってしまうじゃないか!

俺の苦渋と悲嘆がわかっているのかいないのか、(おそらく)情けなさを極めた顔をしていた俺に、瞬がにっこりと笑いかけてくる。
そして、魂を吸い込んでしまいそうな あの瞳で俺を見詰め、瞬は 俺の反抗心を凶悪なほど優しく強い力で捻じ伏せてしまった。
「頑張りましょう! 僕たちの恋のために!」
明るく元気に言い放つ瞬の瞳の眩しいまでの輝きに、俺は激しい目眩いに襲われることになったんだ。
その くらくらする頭で、俺にわかったことが一つだけ。

俺は、かなり厄介な相手に惚れてしまったらしい。






Fin.






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