初恋を失う つらさと苦さに打ちのめされた俺は、その足で某携帯電話の部屋に向かった。 着信音が聞こえたわけでもないのに その利用法を思い出すことができたんだから、奴は俺にとって携帯電話よりは意味のある代物だったのかもしれない。 長髪の携帯電話の部屋には、直情径行・暴虎馮河を旨とする もう一人の携帯電話も来ていた。 そこは、俺たちが瞬や沙織さんに隠れて悪さをする時の溜まり場だったから。 俺は、紫龍の部屋に入るなり、 「酒を隠し持っているだろう。出せ」 と言った。 「何のことだ」 長髪の携帯電話が白々しい着信音を響かせてくる。 無意味な音を聞かされても苛立たずにいられる気分じゃなかった俺は、紫龍にさっさと酒を出させるために、手短に奴の酒供出義務の理由を告げた。 「瞬に告白して、振られた」 「それは……提供しないわけにはいかないが」 俺の言葉に、奴は驚きもしなかった。 まあ、俺が瞬に惚れていることを知らずにいるのは、この城戸邸では瞬と沙織さんくらいのものだろうしな。 「しかし、振られたというのは、何かの間違いではないのか? これは俺の私見だが、瞬はおまえを嫌ってはいないと思うぞ。瞬は世話好きで 手のかかる男が好きだから、おまえなんかは理想のタイプなんだ」 「あ、それは俺もそう思うぜ。万一、その気がぜんっぜんなくてもさ、瞬はおまえにヤケ酒を飲ませるような断り方はしない奴だろ。そんな気はないって、はっきり言われたのかよ?」 星矢はフローリングの床に腹這いになり、その腹の下にクッションを押し込んで、ポテトチップスをつまみながら、脂で汚れた指でコミック雑誌のページを繰りながら、そう言ってきた。 城戸邸では、これも重大な悪行だ。 瞬や沙織さんのいるところでこんな真似をしたら、星矢は軽く15分は説教を食らうことになるだろう。 悪行三昧の星矢に、俺は首を横に振った。 「その気がないと言われたわけでも、嫌いと言われたわけでもない。瞬は何も言ってくれなかった。いちばんきつい」 「あちゃ〜」 ばりばりとイモを噛み砕いて頓狂な声をあげる星矢は、少しも真剣に仲間の恋を悼んでくれているようには見えなかった。 まあ、ここで星矢に涙を流して同情されていたら、俺はかえってみじめになるだけだったろうが。 「最近、瞬の奴、ちょっと変なんだよな。いつもにこにこしてるだけでさ」 紫龍が、ベッドの陰に置いてあるチェストの奥から二鍋頭酒の甕をごそごそと引っ張り出してくる。 奴はそのまま椅子には戻らず、床にあぐらをかいた。 中国酒だし、ヤケ酒だし、優雅に安楽椅子に身を預けて たしなむべきではないという考えなんだろう。 俺も奴に 酒が嫌いな星矢は、そんな俺たちを見ると遠慮会釈なく盛大に顔を歪めたが、そこは武士の情け。 星矢は、これから失恋のヤケ酒を飲もうという男に文句を言うことまではしなかった。 紫龍が俺に手渡してきた ぐい飲みが某ミッ○ーマ○スの粗悪模造品マグカップというのが情けなかったが、なんでもそれは、中国の偽ディズ○ーランドとして有名な北京石景○游来園でかつて売られていたイカモノマニア垂涎の品で、かなりの値打ちものだということだった。 「これなら部屋の中に転がしておいても、飲酒に使用したものとは疑われないからな」 紫龍はもっともらしい理屈を披露したが、容器がミッ○ーだろうがキテoちゃんだろうが、そんなことで酒の度数が下がるわけでもない。 失恋したばかりの男が今更スタイリッシュを追求したところで、どんな意味があるというんだ。 俺は、カップの柄は気にせずに酒をあおり、星矢に向き直った。 「いつも にこにこしている――って、それはつまり、いつもの瞬だということじゃないか。おまえがどんなバカをやらかしても、呆れた様子も見せずににこにこと――」 そんなことも、俺には癪の種だった。 その価値のわからない奴のために、わざわざ笑顔なんか作ってやる必要はないのに。 「それはそうなんだけどさ。俺、おととい、沙織さんのグランドピアノの蓋にピーナツぶつけて、弾き返ってきたとこを口でキャッチするっていう芸の習得にいそしんでたんだよ。それを沙織さんに見付かって散々怒られてさ。俺はただ聖闘士としての敏捷性と反射性を養うために特訓してただけだったんだぜ。だから、沙織さんがぷんぷんしながら ご退場あそばしたあとに、『そんなことくらいで何だよ、鬼ばばあ』って毒づいたんだよ」 「おい、仮にもアテナに向かって」 紫龍が、さすがに顔をしかめる。 だが、星矢は平然としたものだった。 「ほんとにオバーチャンだったら、俺だってそんなことは言わねーって」 10代のうら若き乙女だから『鬼ばばあ』もありということか。 大した理屈だ。 「悪いのは確かに俺の方だったしさ、いつもの瞬なら、そんなこと言った俺を叱るだろ。叱らないにしても、たしなめるっていうか、少なくとも顔をしかめるくらいのことはする。でも、瞬はにこにこしてるだけでさ」 「それは奇妙だな」 紫龍が、今度は不審な顔つきになる。 星の子学園の子供たちが真似をすると言って、瞬は星矢の躾にはいつも厳しかった。 罵詈の類を口にすることは――子供たちがすぐに真似できてしまうことなので――特に瞬が厭う行為である。 それを瞬がにこにこ笑って聞いていたというのであれば、それは確かに奇妙なことだった。 「ま、そのあとで、沙織さんの背中に向かってアカンベしたら、頭を小突かれたけど」 「……」 星矢の体験談はあまり――ほとんど――参考にならない。 そう悟ると、俺と紫龍は、それぞれのミッ○ーマ○スもどきに向き直った。 「何かの間違いではないのか。何か他に――別の心配事を抱えていて、他のことに気がまわらなかったとか」 「瞬が人の話を上の空で聞くなんて、そんな失礼なことをすると思うのか。星矢じゃあるまいし」 「それはそうだが」 「瞬の奴、今日は沙織さんの命令で病院に行ってきたんだろ。そこでショックなことでもあったんじゃねーのか。新米看護士のねーちゃんに女用の更衣室に案内されたとか」 星矢が懲りずに、話に混じろうとする。 この性懲りのなさ・屈託のなさを見習えたら――と、正直 俺は思った。 一度や二度の拒絶に いちいち傷付いたりせず、猪突に瞬に向かっていけたなら、俺はどんなにおめでたい男でいられるだろう――と。 「瞬は、そういうことには慣れているだろう。マンモグラフィーの検査機の前に連れていかれても、瞬ならにっこり笑って『持ち合わせがないので 、できません』で済ませそうだ」 屈託なく悪びれない星矢の人徳のゆえか、あるいは紫龍自身が物事に頓着しない男だったのか、龍座の聖闘士がごく自然に 懲りない天馬座の聖闘士を会話の中に迎え入れる。 「マンモグラフィーって何だよ?」 「乳がん発見のためのX線撮影装置だな」 「うげ」 紫龍の持ち出した たとえ話の妙な なまなましさに、屈託のなさが売りの星矢が、顔を歪める。 星矢はおそらく、紫龍が酔っているのではないかと疑った――だろう。 星矢が本当に紫龍の正気を疑ったかどうかは、星矢ならぬ身の俺には判断しきれないところがあったが、少なくとも俺は紫龍の正気を疑った。 二鍋頭酒は標準的なウォッカよりアルコール度数の高い酒だ。 失恋男を慰めるために わざと口にしたにしては、あまりにも笑えないジョーク。 もはや星矢も紫龍も頼むに足りずと悟って、俺は一人 鬱然と酒に映る自分の情けない顔を見詰めることになったんだ。 小さなカップの中の酒に映っている自分の顔を眺めていると、ふつふつと情けなさが増してくる。 「一度の失敗くらいで挫けんなよ! どうせ諦められないんだろ!」 俺は多分、かなり肩を落としていたんだろう。 星矢が、おそらくは失恋男を励ますつもりで、無責任に俺を煽ってくる。 紫龍も、その点に関しては、星矢と同意見らしい。 「これが普通の婦女子相手のことなのであれば、『女は他にいくらでもいる』と言って慰めてやるところだが、瞬は この世に一人しかいないからな。瞬の代わりになれる者はいない。となれば、おまえの採るべき道も限られてくるわけで――これから おまえは、眠り姫を求める王子のごとく、イバラの道を進むしかないということになる。優雅に落ち込んでばかりもいられないぞ」 他人事だから気楽なのか、あるいは他人事だからこそ冷静かつ客観的に現実を見ることができているのか――星矢と紫龍は、いともたやすく俺の未来を予言し、示唆してくれた。 そう、俺は諦め切れなかった。 諦められるわけがない。 よりにもよって、俺は、瞬という稀有な人間に惚れてしまった。 瞬以上に素晴らしい人間、瞬より魅力的な人間は、懸命に探せば この広い世の中に一人くらいはいるのかもしれないが、瞬はたった一人しかいない。 だいいち、俺が惚れているのはアンドロメダ座の聖闘士だぞ。 瞬は俺と同じ、アテナの聖闘士なんだ。 俺たちはきっと死ぬ時まで一緒だろう。 俺は、瞬の強さ、瞬の優しさ、瞬の健気を、これからも毎日見ていなければならない――見ていられる。 諦めることなんかできるはずがないじゃないか。 『これまで通り、自分の命もためらいなく預けることのできる 「その甕をよこせ」 俺は、紫龍がさりげなく自分の身体の陰に隠していた酒甕の譲渡を、龍座の聖闘士に要求した。 「馬鹿を言うな!」 紫龍がどこかで聞いたことのあるセリフを怒鳴って、俺の手から酒甕を死守しようとする。 「貴様、それが、命をかけた戦いを共にしてきた仲間への態度か! 貴様は、『自分のためより義のために生き、人のために命を捨てられる男』がキャッチフレーズの聖闘士だろう。酒甕の一つや二つ、友のために捨てられなくてどうする!」 「酒と友情を一緒にするな! ウォッカの国の聖闘士ともあろうものが、マグカップ2杯の二鍋頭酒で、もう酔っているのか!」 「貴様こそ、馬鹿を言うな! 俺が酔っているだとっ !? 」 俺が酔っているなんて、この馬鹿野郎は何を言っているんだ。 酔いたいのに酔えないから、俺は“おかわり”を求めているんだ。 俺は 振られたのが夕食後でよかったと考えることも、俺にはできていた。 おかげで、あとで同じ食卓で瞬と顔を合わせることを気にせずに、こうして酒が飲める。 振られたのが夕食前だったなら、瞬に余計な心配をかけないために、今頃 俺はちびちびコーヒーを舐めていることしかできなかっただろう。 |